四柱推命の歴史と今

四柱推命の歴史

四柱推命の歴史と今四柱推命の発祥は、明の時代の、萬育吾氏が「唐の時代から幾度命術が変わったものか」と、感嘆しているそうで、発祥は618年から始まる唐の時代以前なのでしょう。
古来の年柱を中心に占っていた方法を「除子平」という方が「珞ロウ子三算消息賦注」という古書を記し、日にちまで広げて三柱にしました。
1000年ほど前の北栄の時代に、四柱推命の元になる原書『淵海子平』という本が、徐大升氏によって発展し、当時の軍師であり明の初代首相であった劉白温氏が、四柱推命の聖典とも言われる、「滴天髄」を記した、と言われています。
清時代に、余春台氏が、明の時代に著わされた著者不明の
「欄江網」を編集し「窮通宝鑑」としてまとめ、その後、沈考贍氏が、「子平真栓」を記し、試行錯誤しながら四柱推命(子平)は発展して受け継がれてきました。
1900年代に入って、袁樹珊、徐楽吾が、原書を次々に注釈、訳解し、枝葉を払って編集しました。
徐楽吾氏は、扶抑や調候の意味をわかりやすく、現代流に解説した本を何冊も出し、それが今の四柱推命学の源流となっております。
ただ、滴天髄が編集されたのは、600年ほど前ということで、その頃にはすでに子平の理論は完成されていたということになる訳で、私達はその軌跡を温故知新として現代から追っている形となります。

日本では江戸時代に桜田虎門という方が「淵海子平」の翻訳本を出しました。
関東では高木乗氏、関西では阿部泰山が「泰山派」と言われる流派を広げ、今現在の書店に並んでいる書籍も「泰山派」を名乗る人が多いようです。
昭和の初期では、初代高木乗氏が創設した「命理学会」。そのお弟子さんである、安田靖氏は、「日本推命学研究会」をおこし、命式の五行を、円形の五行図に分布する方法を考案し、強弱を一目で把握する方法で合理的に命式をとらえています。
「日本命理学会」の武田考玄氏は、本格的な中国の原書を長年に渡り研究、翻訳し、扶抑用神を重視した本を発表されています。
昭和40年代に、台湾の張耀文氏が来日して「透派」は中国子平を占術研究家を対象に広げた他、「香草社」を自ら運営し多数の書籍を出版されています。

四柱推命は、同じ流派の人のはずなのに、大きく鑑定結果が違うようです。
はじめは不思議だったけど、「占いの技術や星の受け止め方の感性が違んだな」 と、納得するようになりました。
「占い」ですから、その方の感性に寄るところが大きいのです。四柱推命は一人一派と言っても差し支えがない程、個人の哲学や経験に左右される占いだと思います。

↑ PAGE TOP