世界で一番古い夢。活躍した夢占い師が後継ぎの息子さんに宛てたといわれる手紙。

ギリシアの夢占い師が息子に宛てた手紙

息子よ、以上で必要なことは委細洩らさず説明し終わった。
夢判断にあたって困難な問題はすべて解決しておいたから、今後、おまえはそれらの問題に遭遇しても、難なく対処し容易に答えを引き出せるだろう。
言っておくが、本巻で私が意図したのは、いろいろな夢とその結果を列挙することではなく、問題のひとつひとつに対する解決法を集成しておくことであった。たくさんの夢は、その例示のために記したのだ。
そこで知識をさらに広げ、夢判断の実践がいっそう容易になるように、私はおまえのためにできるだけ多くの夢とその結果を集めて、さらなる1巻の著述を試みようと思う。以上の記述は、推測によるのでもなければ、頭で考えた論理をもとに作り上げたのでもなく、それぞれの夢のあとで現実に起こった結果を、私自身が何度も見聞きしたうえで述べたものである。本書において私は、大衆を喜ばせるような面白い記事や、言葉の小人に誉めてもらうような巧妙な理屈を提供しようとしたのではなく、どんなときでも、ただ調査によって得た事実だけを、私の所説を判定するための証人として呼び出したのである。

神々や信頼できる人物の言葉は、すべて真実であって、けっして偽りはないということを説明した。
ところが、人間というのは、なにかを告げられてそれが言葉どおりの結果にならないと、だまされたと信じ込んでしまうものであるから、ここであらためて注釈を加えようと思う。
神々や信頼すべき神仏のいう事はすべて真実ではあるが、その言い方が直接的な時と、謎めいてるときがあるということを解説しておこう。まず、直接的な言い方をする場合には、言葉は単純明快であるから、なんら問題はないし、あれこれ詮索の必要もない。しかし、言い方が謎めいていて、直接的でない場合は、その謎を解読せねばならない。神の言葉がしばしば謎めいているのには理由があるのだ。
つまり、神はわれわれ人間よりもはるかに賢明であるから、われわれが神の言葉を受け取る時は、かならず、それを仔細に健闘することを望んでいるのだ。
人間の運命を支配する夢の主は、「その人はメッセージを受け取ってくれるだろう」と、思い込んでいるフシがある。「この夢を見て、出来る限りの事を注意するべき」あるいは、「この夢を見て、心の準備をしておくこと」と、言っているのだ。「夢の主」が、その人が推理するのを待っていられず、急いで知らせたい時は、直接的な正夢となる。

ある男は夢で神様(バーン神)から、「おまえは妻から間男を通して、毒を盛られるだろう」と、言われた。
間男の名前は、男の親しい友人であった。夢ののち、妻は男に毒を盛ることはなかったが、その友人に籠絡され姦通してしまった。
夢の解釈は、姦通と毒殺はどちらも人目を忍んで実行され、そしてどちらも「謀り事」と呼ばれるからであり、しかも姦通する妻と毒を盛る妻は、夫を愛していないという点で共通するからである。その後まもなくして、妻は夫の家を出た。毒は死に通じ、死はすべてを解き放つからである。
神が、その神本来の衣装を身に着けていなかったり、自分の領分でない場所にいたり、ふさわしくない行動を取ったりすれば、その神の言葉は偽りであって、真実と解釈することはできない。神が本来もっているはずの器具類や付属物を着けずに現れたら凶。だから神の発現であっても、だれがだれに言うのか、その場所はどこか、神の振る舞いや衣装はどうか、といったことすべてに、注意を払う必要がある。たとえば、クリュサンベロスは、奴隷売買の件で裁判で争っていた時、こんな夢を見た。
神様(パーン神) がローマ風の衣装と履物を着けて、市場に座っているのが見えた。そこで、例の訴訟問題について訪ねると、神は、「おまえは勝つ」と答えた。
この夢の結果、彼が裁判に破れたのは当然であった。なぜなら、閑静な場所を選んで繁華を厭い、しかも持ち物と言えば鹿皮の衣に杖と草笛だけというバーン神が、都会風の衣装を着て、市場に座っていたというのだから。
巧みな夢判断とは、類似性を看て取ることのできる人である。正しく現れた夢の像を、そのまんま判断することなら誰にでもできる。
ここでいう類似性の意味は、夢に現れた心像を水面に映った像に喩える事ができる。水面の像は、水が激しくうごいているときには、実物と少しも似ていない。
ちりぢりに壊れてゆがんでしまった水面の像の断片を 一つにまとめて、「これは人間」だとか、「これは馬」だとかいう風に識別できる人こそ、夢判断が巧みなひとというべきであろう。夢は、正しく現れたイメージが、それを かき乱す働きによって損なわれているのである。
夢の中で出会った人のうち、たいへん親切なひと、友好的で親愛の情を示してくれる人は、たとえ見知らぬ人であっても、今後の日々を幸せにしてくれるだろう。
一方、敵対的な態度で接してくる人、こちらを憎み、そしてこちらでも憎み返しているひとは、たとえ知らない人でも、不幸な日々をもたらす。
しかし、このような判断は実情に合致しないとおまえは思うかも知れない。
そのために、次のことを付言しておこう。もし、夢の中で友人をみたのに、不幸な日々を送ったという人がいれば、その友人はその人を本当は憎んでいるのに、愛しているようなふりをしているのだ、と考えよ。
逆に、夢の中で、にくい敵をみたのに、その後、幸せな日々を送ったという人がいれば、その敵に対する憎しみが不当なのだと考えよ。

自分が妊娠する夢をみた場合、貧乏人なら、妊婦が大きな腹をかかえているように、財産をいっぱい抱え込むだろう。妻のいる男は妻を失う。自分が妊娠している以上、子を生んでくれる女にはもはや用は無いからである。
妻のいない男は、とても気の合う女と結婚するだろう。妻と同じ事を体験する夢を見たのだから。それ以外の人にとっては、病気の予兆である。
出産と分娩の夢は、妊娠中でまだ子を腹の中にもっている夢とは区別する。
まず病人には、死期の近いことを告げる。
なぜなら、出産するときには、全身から気が放出されるからであり、さらに、胎児が自分を包んでいた肉体から抜け出すのと同様に、魂も死者の体から抜け出すからである。しかし、貧乏人、債務者、奴隷など、なんらかの窮状にある人にとっては、現在の困難が除去されることを意味する。
理由は説明するまでもなかろう。
この夢は、隠れていたものを明るみに出す。それまで隠れて見えなかった胎児が外に現れる。
資産家、金貸し、他人の財産を委託されている管財人などが、この夢を見ると、損害をこうむる。自分のなかに所有していたものを奪い取られるのだから。
貿易商や、商船主にとっては、商品の荷物がさばけるから、吉夢である。
この夢を見たのち、血縁の親族と別離したひとも多い。胎児が、血を分けた親の体から切り離されたのだから。
生まれたばかりの子を抱きかかえたり、見たりする夢は、それが自分の子であれば、男にとっても女にとっても、災いの前兆である。赤ん坊を育てるためには、ある主の厄介な仕事がどうしても避けられないから。この夢は苦労と、悲しみと心配を予告する。
そして、その赤ん坊が男の子なら、はじめ悪くても終わりには良くなるが、女の子だと、はじめよりも終わりはいっそうひどくなり、しかも大きな損失をこうむることになる。と、いうのは、男の子は大人になっても親からなにひとつ持ち去らないが、女の子には結婚持参金が必要だからだ。
私の知っているある男は、娘が生まれる夢を見たのち、借金をするはめになった。別の男は逆に、死んだ娘を埋葬する夢を見たら、借金を返済した。他人の子を見る夢は、その子が美しく立派な姿をしていて、しかも、子供らしい活気にあふれている場合、吉である。
そのような夢は、順調なときの始まりを告げており、この先なにかすばらしいことを成し遂げて、大きな成功をおさめる希望が持てる。子供と言うのは、今はなにもできなくても、成長したあかつきには、大きなことを成し遂げる力をもっているからだ。
似通った動きをするものは、お互いに照応する。たとえば、ある男は、片足を蛇にかまれる夢を見た。すると男は路上で車にひかれて、ちょうど夢でかまれたほうの足を折った。車は、蛇のように前進を使って移動するからだ。
同じ夢でも、それを見た人の状況が異なれば、どれほど違った結果をもたらすかを理解するためには、以下に挙げる一連の夢が良い参考になるだろう。
妊娠中のある女が、ヘビを出産する夢を見た。その女から生まれた子供は、すぐれた弁論家として名をあげた。ヘビは弁論家と同様、二枚舌をもっているからだ。その女は、子供の教育のためには、欠かせぬ条件である富を、十分に所有していた。
別の女が同じ夢をみた。
その女から生まれた息子は、密儀の導師になった。ヘビは密儀にかかわる神聖な動物だからだ。その女は神官の妻であった。
占い師を父にもつ女が同じ夢を見た。
生まれた子は占い師になった。ヘビは、占いをつかさどる神アポロンの聖獣だからだ。
淫乱な性質をもつ遊女が、同じ夢を見た。
生まれた子は野放図な放蕩者になって、市中の人妻を次々に籠絡した。ヘビはどんなに狭い穴でもくぐりぬけて、見張り番の目をさばこうとするからだ。
邪悪な性質をもつ女が、同じ夢をみた。
生まれた子は盗みを働いて補縛され、首をはねられた。ヘビも捕まると、頭を殴られて死ぬからだ。
奴隷女が同じ夢を見た。生まれた子は奴隷労働から逃げ出した。ヘビはまっすぐに進まないからだ。
別の女が同じ夢を見た。生まれた子は進退麻痺になった。ヘビも体の麻痺したひとのように、進むときに全身をくねらせるからだ。そして、その女は夢を見た時病気を患っていた。病気中の妊婦の体内で発生し育てられた幼児が、健全な運動神経を保てないのは当然である。
息子よ。
他の同業者よりも巧みな解釈をすると評判を得たい時は、文字変換するといいのだ。
しかし、おまえ自身の夢を判断する時には失敗のもとであるから、利用しないように。夢占いをするには、その人の国籍、職業、金銭状況、悩みごとをちくいち聞き出し、夢のストーリーは緻密に書くことだ。一つもらさず聞いて判断する事が大切で、もしも、夢ストーリーが少しでも違うと正しい占いは出来ない。
夢の結果が間違った報告をしていたとしても、もはや取り返しがつかない。技術が未熟だという評判は避けねばならない。できるならばその人を追跡し、周囲の人にその人の評判を聞いてまわること。そうすれば夢判断を誤ることはないのだ。

夢占い師のポイボスの書き記した、この夢の例は、多くの夢判断師を誤らせている。
ある男が橋になる夢を見たところ、川の渡守になった。渡守は、橋と同じ働きをするからだ。
これがポイボスの記録している夢解釈なのだが、ある金持ちの男も自分が橋になる夢をみたところ、大勢の人からさげずまれ、言わば足で踏みつけられるような目にあった。
女や妙齢の少年もこの夢を見ることがあり、その場合は娼婦や稚児となって、たくさんの男を我が身の上に載せることになる。裁判で係争中の男がこの夢を見れば、訴訟相手のみならず、裁判官に対しても優位に立つだろう。川は臨むことを、だれからも静止されずに実行する、という点で裁判官に似ており、そして橋はその川の上に位置するからだ。

夢を見てからその結果が現れるまでには、どれくらいの時間がかかるのか?と言う人たちに対しては、次のように答えよ。
現実において一定の期間が決められている物事、たとえば、協議会、祭礼、長官職、将軍職などは、夢に見た場合でも、それぞれに定められた期間内にその結果が現れる。
一方、現実において一定の時間内には完結しない物事、たとえば、性交、食事、排便およびそれらに付随する事柄は、夢の結果もいつ起こるか一定しない。
動物に関しては、誕生するのに要する期間、そなわち胎内に宿っている期間が、そのまま夢の結果が現れるのに要する期間である。
神、王、親、主人に関しては期間が一定しないから、結果とそれが現れるまでの時間との両方を正しく知るためには、夢の内容とともに、夢を見た本人の予測を考慮にいれる必要がある。明日のことについて危惧、または希望をもっている人に向かって、数年先のことを予言して見せても笑われるのがおちであろう。また、試用期間が一日だけの物は、数日内に結果が現れるが、もっと長い期間使う物は、結果が現れるのにももっと長い時間がかかる。遠くから見る物、たとえば天体や気象は、距離が長いだけに結果の現れるのも遅い。それから、吉夢が与える福も、凶夢が与える禍も、男女を問わず身分の高い人に対しては大きいが、中くらい階級の人には禍福も中くらい、身分の低い人には一様に小さい。とくに吉夢の福は小さい。
身分の低い人は、つまらない物を手に入れただけでも満足し、大喜びするからだ。まさしく、カリマコスの詩句のとおりである。
いつでも神々は小さき者には、小さき物を授ける。

自慢できるような長くて美しい髪をもっている夢は、とりわけ女にとって吉。
女は美しく見せるために、他人の髪をつける事さえあるくらいだから。
学者、神官、預言者、王、長官、ディオュソス神につかえる舞台芸術家にとっても吉。こういった人達は、長髪が慣例であったり、長髪であることが職業の一部であったりするからだ。他の人達にとっても吉夢であるが、その程度は小さい。
なぜなら、この夢は豊かさを意味するけれども、快適な豊かさではなくて、長髪の手入れに面倒がかかる分、苦労の多い豊かさなのだ。伸ばし放題で手入れさていない髪、見苦しくてとても髪(コメー)とはいえないようなものを頭につけている夢は、だれにとっても、苦痛と悲哀を意味する。なぜなら、気を配って良い状態に保つことを「コメ」と言うし、それに髪を手入れせず伸びるにまかせるのは、不幸な境遇にある時だからだ。クシで髪をとく夢は、男女ともに利益をもたらす。
クシとはすなわち時間であって、硬直したものを解きほぐし、まっすぐにする働きをもつからだ。髪を編む夢は、女とそれを習慣にしている男にとって吉。そのような習慣のない男には、借金が絡み合って返済額が増える事。場合によっては、捕縛されることを予言する。

衣服、家、壁、船などは、身体を取り囲んでいるもの。すべてお互いに照応しあう。
ある男は木性の服を着ている夢を見た。彼は船に乗って航海をすることになった。木性の服とは船の事だったのでである。
ある男は服のまんなかが敗れる夢を見た。すると彼の家が壊れた。彼を取り囲んでいるものが破損したからである。
ある男は屋根の瓦がなくなる夢を見たら、服をなくした。
彼を覆っていたものがなくなったからである。ある男は壁が壊れる夢を見たら、所有していた船の船倉が壊れた。 身体を取り囲んでいるものは、身体そのものにも対応する。
事実、服が破れる夢を見た男は、その服を着て破れた箇所が当たる部分に傷を負ったのである。
衣服が身体を包んでいるように、身体は魂を包んでいるのだから、この結果は頷けるものである。
奴隷が意味するさまざまな事物の中に、主人の身体がある。
ある男は従僕が熱を出す夢を見たところ、自分が病気にかかった。
従僕の主人に対する関係は、体の魂に対する関係に等しいから、これは当然の結果である。
ある男は馬の蹄鉄をはく夢を見た。男は従軍し騎兵になった。蹄鉄をはくのが馬であろうと、馬に乗る人間であろうと、違いはないのだ。
夢の結果が夢を見た本人ではなく、それに似た人、血のつながりのある人、同じ名前の人に表れる場合も少なくない。
たとえば、夫のいるある女が、別の男と結婚する夢を見た。しかし、彼女の夫は健康であったから、夫と死別して新しい男と結婚できたわけではないし、彼女は商売をしていないではないから、結婚するときのように、他人との売買の契約を交わしたわけではないし、彼女には年頃の娘はいなかったから、彼女自身ではなく娘が結婚したわけてもない。
まして彼女自身が病気にかかって死ぬということもなかった(結婚と死は、それにともなう儀式が似通っているため、照応しあうのである)
だが彼女には同名の姉がいて、こちらが病気にかかって死んでしまった。
もし彼女自身が病気にかかっていれば、彼女に表れたはずの結果が、同名の姉に表れたのである。

爪を切る夢は、借金のある人にとっては、利息の返済を意味する。それ以外のひとは、もし自分で切るのではなくだれかに切ってもらったのなら、その人から損害をこうむるだろう。人にだまされて損害をこうむることを、慣用句で「爪を切られる」と、言うからだ。(昔のことわざですね)
耳がたくさん付いている夢は、妻や子供や従僕のような自分のいうことを聞いてくれるものがほしいと念願しているひとにとっては、良い知らせである。
富豪にとっては、自分を迎える大きな声を意味する。
そして、耳が美しい形をしていれば歓声、醜い形をしていれば罵声である。
一方、奴隷および原告被告を問わず裁判中の人にとっては、凶夢である。
奴隷の場合、主人の命令を聞かねばならないような境遇がこの先まだまだ続くんだろうし、裁判の場合、原告なら逆に告訴され、被告なら今以上に多くの告訴を突きつけられるだろう。
この夢は、今以上に多くの耳が必要だと暗示しているのだ。だか手工職人にとっては、仕事の注文する声をたくさん聞くことになり、吉夢である。
一方、いまもっている二つの耳を失う夢は、以上とは逆の事を意味する。
垢や汁の詰まった耳を掃除する夢を見たら、嬉しい知らせが聞けるだろう。
逆に、耳を殴られる夢を見たら、悲しい知らせを聞くことになるだろう。
アリが耳に入り込む夢は、弁論術教師にとってのみ吉。蟻は講義を聴きに来る青年に似ているからだ。
それ以外の人にとっては、この夢は死の予言である。蟻は大地の子であり、地下へ降りていくからだ。

私の知っているある男は、自分の両耳から小麦の穂が生えてきたので、どんどん伸びるその小麦を手をつかんで収穫する夢を見た。その後、男は、父が死んで自分がその遺産相続人になったという知らせを受けた。
つまり、麦の穂は遺産を現し、しかもそれが父の遺産であったのは、両耳が兄弟の関係にあるからである。
ロバの耳をつけている夢は、哲学者にとってのみ吉。
ロバの耳は俊敏に動くからだ。それ以外のひとにとっては、隷属と苦役の予兆である。
ライオン、オオカミ、豹などの猛獣の耳をつけていたら、他人からの中傷が原因になって陰謀を企てられるだろう。これ以外の動物についても、それぞれの性質に応じて判断すれば良い。
耳が目のうちにある夢をみたら、聴力を失って、普通なら利いて知る事柄を、見る事によって感知するだろう。逆に目が耳の位置にある夢を見たら、視力を失って、普通に見て知る事柄を聞くことによって感知するだろう。

↑ PAGE TOP