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2010.07.16.
ジル・バレンタインは生きていた。
そのニュースは瞬く間に基地や支部のみならず、世界中に広まった――わけではなかった。むしろ全くの逆で、戒厳令が布かれ極秘扱いにされた、という方が正しい。いずれは誰もが知るところとなるのだろう。でもそれはまだもう少し先の話だ。
帰還した彼女を待ち受けていたのは、何時間、何日も続く精密検査、そして事情聴取。すべて必要なことだとは理解している。行動を支配されていた数ヶ月間に彼女が行ったこと、それから彼女が知っていると考えられている様々な事柄のことを考えれば、仕方のないことだ。それでも何度も同じことを聞かれ、執拗に続く聴取を受け続けるのは、流石に苦痛だったようだ。ある日、警護――事実上の監視だった――に就いていたシェバ・アローマに「なんだか世紀の大悪人にでもなった気分」と漏らしたという。
ジルの警護には、シェバの他にキジュジュにおけるミッションでチームを組んだおれ――クリス・レッドフィールド――が引き続き組んで当たっていた。事情を知っているし能力も申し分ないから適任だろう、というのがその理由だ。穿った見方をする者ならば、今回のミッションに関わった者たちを一所に置き、管理・監視の労力を少しでも軽減しようとしている、と推測するかもしれない。
当たらずとも遠からず、だろう。
キジュジュでおれたちが暴き、知り、そして持ち帰った情報は、あまりにも危険な代物だった。世界にとっても、BSAA(自分たち)にとっても……。
ある程度の規模を持った組織であればどこもそうなのだろうが、多分の例に漏れずBSAAもとにかく金の掛かる組織だ。人と物と情報と。それらを用意し、滞りなく動かすために金が必要なのだ。
元来営利目的ではなく、そういった活動が見込めるはずもないBSAAは、活動資金のほぼ全額を企業や国からの寄付金で賄っている。キジュジュでの黒幕だったトライセル社は、BSAAの大口スポンサーだ。情報の扱い方を間違えれば、間違いなくスポンサーを失う羽目になるだろう。そうなれば必然的にBSAAはその活動の幅や規模を縮小せざるを得なくなる。それを防ぐ為にも何らかの工作か取引が密かに行われるのだろう――おれたちのあずかり知らぬところで。
物事の一部だけを見てすべてを判断するのは間違っている。何しろ相手は世界中に支社や工場を持つ巨大な企業なのだ。そこの一部が腐っていたから、といって他の全てもが同様に救いようのない程腐っているとは限らないじゃないか? それを理由に企業を潰すのは簡単だ。だがそれではなんの解決にもならず、いたずらに何千、何万もの人々の職を奪うだけ。アンブレラが崩壊したときにも似たようなことが起きた。アンブレラにしろトライセルにしろ、彼らは腐っても製薬会社だ。もし一部分でもいきなり操業停止にしてしまったら、たとえば医薬品が不足するとかいう事態を引き起こしかねない。
そうなったら、多分BSAAも終わりだ。いくらバイオハザードやバイオテロを阻止する為だと言ったところで、善良に暮らす無関係の人々から職と医薬品を取り上げてしまったら、どちらが悪者とされるかなんて分かりきっている。当然、おれたち(BSAA)だ。
実害をもたらす者がおのれの敵。ひとの感情なんて、そんなものだろう?
守秘義務はあるし、そういう契約も交わしている。だがそれでも安心しきれないのだろう。自由に動き回られるよりは、ある程度までに行動を制限し、管理(コントロール)が出来る“任務”は便利なことこの上ない。そういう例はいくつも見てきたし、実際自分だって何度もそんな“任務”を受けてきた。
生物兵器やそれを作る奴らを根絶やしにし、大切な人たちを守る、その為なら。おれはなんだってやる、甘んじて受ける用意と覚悟がある。
* * * * *
BSAAによるジル・バレンタインの事実上の監禁と、それに伴う警護任務は、約三ヶ月後に終わることとなった。その間にジルの身柄はアフリカ支部からより高度な医療と研究施設のある欧州の本部へと移され、当然ながらおれとシェバも共に移動した。
三人の誰もが、基本的には施設内の特定の区画からは出られず、誰かと連絡を取ることも許されていなかったが、任務自体は楽で退屈なものだった。空いた時間は二人で、あるいは三人で様々なことを話し合った。あのミッション以降に起きた様々な事件とか、シェバに話すと約束していたウェスカーとの因縁話とか、くだらない馬鹿話とか。本当に様々なことを話したんだ――おれもジルも切り出さなかった、ただひとつのこと以外は。
最後の二週間は社会復帰するための準備という名目で、おれとジルのホームグラウンドである北米支部で過ごすことになった。この頃にはもう、ジルの生還は極秘扱いではなく、公然の秘密と化していた。相変わらず支部の敷地から外には出られず、彼女自身は誰とも連絡を取れずにいたが、おれかシェバのどちらかが付いていれば、行動の制限はほとんどなくなっていた。
“解放の日”まで一週間を切ったある日。その時おれとジルは射撃場からの帰りで、閑散としたラウンジの一角で互いの腕をけなしあっていた。シェバはおらず、人がほとんどいないのを良いことに、もう一時間もそこを占拠していただろうか。ジルはそれまでと変わらぬ口調でこんなことを切り出してきた。
「そういえば、ねぇ、私の扱いってどうなってるの?」
どう、と問われても、どのことを差しているのか判断が付かず、おれは言葉を詰まらせる。
「だから、私が落ちたあと。どうなったの」
どういう扱いになっているのか分かっているが、単純に確認しておきたい。それだけのことだと言わんばかりの、実に軽い口調だった。だからおれも正直に答える。嘘をついても意味はない。
「……MIA。でも、あれから三ヶ月後に死亡認定されたよ。だから今は立派なゾンビのお仲間ってワケだ」
とはいえ、もう法的にもしっかり“生き返って”いて良い頃だ。担当がよほどの間抜けでない限りは、そのように処理してくれているはず。その辺の事務仕事のことはおれの管轄外だから確証はない。でもおれ自身がやるよりは、よほど上手く、手早く手続きの一切合切を終えてくれていることだろう。
「それじゃあ、私のお墓があるわけね」
――ああ、そうだ。このアメリカの大地には確かに彼女の墓がある。三年前に建てられたものだ。アフリカに向けて出発する前にも立ち寄って“挨拶”をしてきていたのに、すっかり忘れていた。
忘れて、墓があるなんてことはなかったことにしてしまいたかった。でも、わずかな嘘も不正も許さないと言わんばかりのジルのまっすぐな視線の前では、おれは渋々ながらその予想を肯定するしかなかった。
彼女を“失った日”の三ヶ月後。BSAAはジル・バレンタインの死亡を認定した。
形ばかりの葬儀を執り行ったのは、12月の第二土曜日だった。その日の朝は晴天で、空は彼女の瞳のように澄み渡っていた。だが葬儀の時刻が近づくにつれにわかに曇りだし、しまいには雨が降り始めた。その時は参列していた誰かが言った「世界が悲しみ、天も泣いている」なんて言葉を、妙に感心して聞いたものだ。でも本当は「頭を冷やして、もっとしっかり捜索をしろ」という意味だったのかも知れないな。
葬儀なんて、今ならばなんて馬鹿なことをしたんだろう、と思う。だがあの時は……多分、最善のことをしたのだ。そんな風に、皆が皆自分に言い聞かせていた。なぜならMIAとなって、その後生還した者など当時はただの一人もいなかったから。そして生物災害の危険は常に身近に潜んでいて、いつなんどき事件が起こるともしれないから。そもそもあいつら(悪人)は映画のように、こちらの都合に合わせてなどくれない。
そして、仲間を弔うのはそれが初めてではなかったし、最後にもならなかった。おれたちに留まることは出来ず、弔われるのが自分ではなかったことに感謝し、とにかく進み続けるほかなかったのだ。
……ジルは生きている、と頑なに主張するただ一人の男を除いて。
迷いも曇りもない眼でそう言える、あいつが羨ましかった。
「見てみたいな」
自分の墓があると知ったジルは変わらぬ口調のまま、それどころか目を輝かせてそんなことを言いだした。なんて悪趣味な女だ。――そんな考えをおれはそのまま顔にでも出してしまっていたんだろう。からからと笑いながら彼女は続けた。
「だって、なかなか見られないわよ? 自分のお墓なんて。興味あるわ」
それはそうかもしれないが、それにしたって自分の墓が見たいだなんて、どうかしている。おれなら絶対見たくない。
彼女は以前と変わらぬ優雅な動作でベンダーに近づき、今日何杯目かのドリンクを両手に持って戻ってくる。元通りに座ってそれから少しの間を置き、意を決したような表情で彼女は切り出した。
「こんなこと、あなたに聞くのは違うと思うんだけど、彼は……どうしてる?」
ついに来た、と思った。意識してかどうだったかは分からないが、それはどちらもが触れてこなかったただひとつのことだった。でも、いつかは触れねばならないことでもあった。
「さぁな」
彼女は天を仰ぎ、今にも泣き出しそうな表情を浮かべる。
「お願い、意地悪しないで」
意地悪をしたわけじゃない。でも今のは確かに、そう取られても仕方ない回答だったか。おれはため息をつく。彼女の望む答えは持ち合わせていないのに、答えねばならないなんて。
「もう、しばらく連絡を取ってないんだ。ああ、取ろうとしなかったわけじゃないぞ。これでも最初の頃はなんとかしようとおれも頑張ったんだ。でもいつの頃だったか、諦めちまった。直接行ってもダメ、電話を掛けてもダメ、ましてや連絡をくれと頼んでも絶対に来ない――お前を“殺した”から、多分怨まれてるんだろうな」
でもそれはおれに限った話ではなく、誰がやっても結果は同じだった。おれたちは段々と互いの間に距離を置き始めた。葬儀が行われるまでは頻繁に取り合っていた連絡も、週に一度が二週間に一度となり、それが月に一度に、二ヶ月に一度に……。音沙汰なしとなるのは、そう難しいことではなかった。もっとも、教えてやれるような情報なんてなにひとつ出てこなかったから、それで良かったのかもしれない。
「……ばかな人」
薄く笑んでジルが呟く。全て予想した通りだったけどでもそれが嬉しい、と言いたそうな笑みだった。それだけ相手を想い、理解している、ということなんだろうな。
「ずっと、ジルは生きているって言い続けてた。葬儀にも来なかったし、あの分なら多分一度もお前の墓には行ってないんだろうな」
「そう」
吐息と共に相づちを打つと、椅子の背にもたれて再びジルは天を仰いだ。その姿勢のまま、不安の覗く細い声で独り言の様に言う。
「私は過去の人間に、なっちゃったかな」
それは多分、声に出すのも恐ろしい疑念だろう。知らぬ間に自分の居場所を失っているかも知れないなど、考えるだけでも相当苦痛だ。既にひとつ、職場という居場所を失いその痛みを味わっていたのだから、尚更だ。とは言えこちらはおそらく簡単に回復できる。完全に同じとはならないだろうが、元通りになるだろう。だが、人の心はどうか。
人の心はいつか痛みを忘れ、前進を始める。それが現実だと彼女も知っている。だが居場所を失っただけならまだしも、もし、別の誰かがその場所を占めていたとしたら? 多分もう二度とその場所は自分のものにはできない。
ジルは生きている、と言ったあの瞳を思い出す。最後に会ったのはもう一年以上前になるが、そのときも変わらぬ眼差しがそこにあった。ならば――
「お前が知ってるあいつは、そんな奴なのか?」
つかの間考えて、首を振る。
「違う。でも自信がないの。三年は……長いわ」
そうだな。三年は、長い。おれはそっと同意する。
「それで、その長い三年が過ぎて、お前の気持ちは変わったか?」
「いいえ」
即答だった。
そうだろう。三年が過ぎたとは言っても、彼女にとって、その内の二年間はただ眠らされていただけだ。目覚めてからはまだ一年と経っていないはず。つまり、実際がどうであれ彼女自身の感覚で言えば、アレはほんの数ヶ月前の出来事でしかないはずなのだ。おれの知るジルは、たった数ヶ月で心変わりするような女ではない。絶対に。
「なら、心配することなんてなんにもない。信じろよ」
言いながら、一体何を信じろというのかと自問する。自分か、あいつか、それとも……おれなのか。
「――そうね」
そう言った彼女が一体何を信じることにしたのか、おれには分からなかった。でも多分、おれではないどちらかだ。
「なんだか少し疲れちゃった。部屋に戻るわ」
儚い笑みを机上に残し、彼女は立ち上がった。おれは同時に立てず、ゆっくりと遠ざかる彼女の背をただ見送った。逃げ出すとか行方を眩ますかも知れない、といった心配はしなかった。そんなことをする人ではないし、数日後には自由の身になれると知っているのだから。そもそも今この時点で彼女が居られる場所など、ここ(BSAA)にしかないのだ。
神は悪人を救わない。
だが、善く生きようとする人々も救わない。祈る者も祈らぬ者も、御許にかしずく者もそうでない者も、全ての者をただ平等に見守るだけ。
だけど……
たまにはこんな風に感じる時がある。
神に愛された人間は確かに存在するのかもしれない、と。
たとえば、ジル・バレンタイン。
これまで彼女は何度も死神の鎌を見ただろう。でもその度に鋭い刃から逃れてきた。おれにはもう何かが彼女の死を拒んでいるとしか思えない。もしそのなにかが神なのだとしたら。それを“神に愛されている”と言うのではないだろうか。
愛するついでに――なぁ、神様。
どうか彼女の祈りを聞いて、その願いを叶えてやってくれ……