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2010.09.05.
2009年某月 U.S.A.
職場経由で入手した、指定日に限り有効な通行証を使い、彼――カルロス・オリヴェイラ――は最初のセキュリティゲートを通過した。適当なスペースに車を止めると、この日何度目かの溜息をついて車から降りる。
ぐるりと辺りを見回して、無意識の内に記憶にある状態と比較した。外観はほとんど変わりないようだが、また少し人が増えただろうか?
以前はあんなにも近しいものだったBSAAなのに、近頃では組織そのものと、そこに関わる事柄、人物全てとの距離を置いて久しかった。完全に接触を断ってから、もう一年になる。今更またここを訪れる羽目になるとは、思いもしなかった。
本音を言えば、BSAAなど近寄りたいところではなかった。彼が何よりも、誰よりも大切に思っている女性(ひと)を確証もないまま“殺した”組織だ。彼女は生きていると、喉を嗄らして叫んだのにその声が彼らに届くことはなかった。だから、好感など持てようはずもなく、代わりに嫌悪や憎悪を感じたとしても仕方のないことだろう。
なのに今日ここに足を踏み入れたのは、“仕事”というやむにやまれぬ事情が出来てしまったからだ。話が来た当初はもちろん拒否したし、別の誰かを身代わりにしようともした。だが、話を聞いて、手に余るような内容であれば断ってくれて構わない。会社もBSAAも、口裏を合わせたかのように同じことを言う。しかもBSAAにいたっては執拗に彼を指名し、嘆願してくる。それが彼に不審を抱かせたが、職を失わない為にもある程度の妥協と譲歩は必要だと理解している。結局様々な事柄を天秤に掛け、私情を排し、プロフェッショナルに徹することにした。
そして今日この場所に立つ、というわけだ。
頭上は穏やかに晴れ、太陽は暖かな日差しを振りまいている。
しかしそれを浴びて歩く彼の心は、凍り付く程に冷えていた。
* * * * *
飾り気のない小部屋の、開け放たれた窓から吹き込む風が女の髪を揺らしていた。窓辺に立つその姿はとても懐かしく見慣れたものではあったが、クリス・レッドフィールドにとってそれは同時にひどく違和感のあるものでもあった。その要因が何であるかは分かっている。
風に揺れる髪。それに違いない。
生来彼女――ジル・バレンタイン――が持っていて、クリスも知っているのは薄茶色の髪だった。二人が知り合ってからもう十年以上が過ぎたが、その間彼女が髪の色を変えたことはない。なのに今はプラチナブロンドだ。違和感のひとつやふたつ、感じて当然だろう。
これが彼女自らの意志で脱色や染色をした結果ならどうということもない。しかし事実はそうでなく、強制的に眠らされている間に使われた、様々な薬品が作用した結果なのだ。キジュジュの実験施設でその報告書を見たのだから間違いない。だから、なのだろうか。本人の意志を無視し、人権や尊厳が踏みにじられていたと知っているから、彼女の現在の姿を受け入れられずにいるのかも知れない。
しかし彼女自身はそれほど気にする様子ではなく、案外その色を楽しんでいるようにも見えた。決して似合わぬわけではない。むしろ似合ってさえいる。ただ、ほんの少しだけ無理をしているようにも見え、それがクリスには辛かった。
そして、以前と変わらぬあの真っ直ぐな眼差しで見つめられると、ひどく落ち着かない気分になる。それは眠れぬ夜に考えるたぐいの、普段は忘れておこうとしている疑問を思い出してしまうからなのか。
なぜあの時手が届かなかったのだろう。
なぜもっと早くに助け出せなかったのだろう。
なぜ――
なぜ、諦めてしまったのだろう?
いずれも後悔の混じる疑問だった。考える度に苦い思いが胸の奥にわだかまる。同時に責める声が聞こえてくる。もちろんそれは女の声ではなく――彼女が責めることはないと分かっていた――それは内から響く男の声で、つまりクリスは彼自身に責められているということだ。
いずれも不可抗力であったし、最善と思うことをした結果だった。しかし人の心はそう簡単に割り切れず、彼女の救出を果たしても――救出したからこそ、なのか――後悔と自責の念が消えることはなかった。
それらを何とか胸の奥底に仕舞い込み、クリスは平常心という仮面を被る。
他愛のない話をしながら、彼女は時計を気にしている。以前とは色の違う髪の先端をその白い指でいじっていて、明らかに心ここにあらずといった状態だ。そんな様子を見て、クリスの平常心は揺らぐ。
揺らぐ心を透かし見て、それを律するかのように備え付けられた電話が鳴り出した。クリスとジル、二人の視線が同時にそこへ向く。2コール目で素早くクリスが受話器を取り上げた。それは事務担当のスタッフからで、客人の到着を告げるものだった。短い言葉で応対し通話を終えると、クリスはそっと息を吐いた。
あと半時間もしたら、彼女は自分とBSAAの保護下から離れて行く。公然と彼女を占有できた日々も、もう終わるのだ。それが不自然な状態であることは百も承知していたが、それでも、と思わずにはいられなかった。この日々、彼は間違いなく幸せだった。
受話器を置いたクリスが視線を室内に戻すと、ジルと目があった。緊張した面持ちで、息を詰めている。その彼女に笑んで頷き、告げた。――来たよ。
彼女はほんの一瞬相好を崩したが、すぐにまた緊張した面持ちに戻る。見るからに落ち着きをなくし、左右の足に体重を交互にかけ始めた。
それを見て、クリスは僅かに目を細めた。こんな彼女は見たことがない。微笑ましくて、恨めしかった。ジルにこんなにも影響を及ぼせるのは、やはりあの男しかいないらしい。
耳の奥に、冷たい雨の音と虚ろに響く牧師の祈祷が甦る。この三年の間、ずっと離れなかったこの音たち。同時に、喪失の痛みとは違う胸の痛みを思い出す。
失って初めて知った。
彼女がいかに大切な人だったのか、その時になってようやく理解した。友人とか、志を同じくする仲間として以上に、大切な女性(ひと)だったのだと……。
どのみち自覚する前から終わっていた想いだが、それにしても遅すぎた。本当におれは愚か者だ。愚かついでに、ひとつ、試してみようか。
クリスはゆっくりと立ち上がり、部屋の隅にあるドアまで移動する。
――なぁ。
ドアノブに手を掛けた彼が、振り向きざまに問いかけた。
「あいつにはまだ――お前のことなにも伝えてないんだ。だから、このまま連れ去っちまおうかな。そうしたら、おれのものになるだろう?」
意表を突くその問いに彼女はしばし考え、そしていまだ見慣れぬ金糸を揺らして笑った。それはいたわりと慈しみのこもった優しい笑みだった。
「分かってるんでしょう、私は大人しく連れ去られたりなんかしない。もしそうなったとしても、どんなことをしたって帰ろうとするでしょう。それにあなたは……それであなたのものになる私が欲しいの?」
両者とも分かっている。その答えはノーだ。ガリガリと頭を掻いてクリスは笑った。ばかなことを言ったと思う。もう何年も前から分かっていたことなのに。これがもし、十年前にあの災害を知る前だったならば、結果は違っていただろうか。
「もうじき来るはずだ。あと少し、ここで待っててくれ」
軽く手を振りクリスは部屋を出て行った。色々と説明などをしなければならないのだから、本当は部屋を出る必要などなかった。なのに出たのは、ただ単純にその瞬間には立ち会いたくなかったから、だ。素直に再会を祝福し喜んでやれる自信がなかった。今は、まだ。
十人も入れば一杯になってしまいそうな小部屋にジルはひとり残された。そうしてつかの間相棒のことを考える。好意があるか、あるいはクリスに対するその感情は何かと問われれば、彼女は“愛している”と答えるだろう。だがそれは特別な一人に対して抱く感情とは違う。家族に向けるものに極めて近しいものだ。
かつて相棒だった男――もし彼女が現場復帰を許されるならば、おそらく再び組むことになるのだろう――からの誘いは、二人の関係を変えてしまうだろうか。
考えるまでもなく、彼女には分かっていた。
この先彼らの関係や信頼はきっと、変わらない。この程度のことで変化が生じる時期はもう、とうに過ぎている。何が起きようとどれだけの時間が経とうとも、同じだろう。彼女はクリスの為にそっと微笑む。互いを知り尽くし、理解している、というのは案外面倒なものだ。行動パターンのみならず、どう考えるのか、どう感じるのかまでおおよその見当がついてしまう。そしてその予想が大きく外れたこともない。
それでも、そこまでの好意を持たれていたことは意外だった。ずっともう“女”としては見られていないのだと思っていたから。それを言えば自分だってクリスをそういう対象者として見なくなって久しいのだが、そう悪い気はしなかった。おかげで幾分か気分が和らぎ落ち着きを取り戻せた。クリスが消えたドアにそっと“ありがとう”とつぶやく。体ごと振り向いて陽光と風を全身に浴びた。そして深呼吸をひとつ。
室内と同様に、彼女の胸は期待と不安で満ちていた。
* * * * *
組織(BSAA)の規模や知名度から考えたら、そのエントランスホールは狭くてみすぼらしい印象だった。どこかの銀行の窓口に似ている、と評する者もいるかも知れない。上品だが決して華美ではなく、どちらかと言えば簡素で質素な空間だった。
カルロスは分厚いガラスドアを抜け、正面にあるカウンターに近寄る。その中に座る愛想の良さそうな女性スタッフに自らの名と訪問の目的を告げた。スタッフは手元のクリップボードを見ながらどこかに連絡をした後、カルロスに名刺ほどのサイズのプレートを渡した。職員とそうでない者を区別する為のものらしい。
「これを左胸か、どこか目立つ場所に着けてください」
言われるがままにそれを着けると、案内は必要かと問われ、彼は不要だと断った。もう二年以上足を踏み入れていないが、それでも知っている建物だ。迷うことはなかろう。彼はエレベーターに乗り教えられた階、部屋へと向かった。
フロアの見取り図で場所を確認してから彼はそこを目指して歩き出す。同じドアがいくつも並ぶ区画に出てまもなくそれを見つけた。ドアの前に立ち、胸に溜まった重い息を吐き出してから――もちろんそれでこの重い気分がどうにかなりはしない――ノックする。返事も待たずに彼はドアを開けた。
そこは小さな部屋だった。簡素な会議用テーブルが部屋の中央に据えられ、それを取り囲むように椅子が八脚並んでいる。テーブルには何も載っておらず、室内には窓辺に金髪の女が一人いるだけだった。背を向けて立っているので顔は見えない。
カルロスは一瞬、その後ろ姿に見惚れてしまった。背格好といい立ち方といい、彼の大切な女によく似ている。けど――、と彼は思い直す。会いたいと願う余り、無意識の内に似た人を探して姿を重ねるのはよくある事だ。実際これまで何度も同じことをやって、落胆してきた。彼女のはずがない。戻って来ているなら連絡くらいくれるはずなのだ。第一、あの人とは髪の色が違う……。
そもそも今日会う約束をしていたのは男ではなかったろうか。ジェイソン・ヴィクターだかなんとかいう。
「あー……失礼、部屋を間違えたかな」
間違えたはずはない、と彼は思ったが万が一ということもある。部屋の番号を確かめようと半身を室外に出した。同時にふふ、と金髪の女が振り向かぬまま笑う。
「大丈夫よ。間違えてないわ」
耳をくすぐる、心地よい音。そしてひどく懐かしくて、凍えた心を溶かすような、優しい音色。同時に彼の胸がちくりと痛む。
声音までもが、大切な人に似すぎていた。もちろん当人なのだから似ていて当然なのだが、そのようなことカルロスにはまだ知る由もない。彼が感じたのは、これがBSAAのいたずらか、それに類する何かだとしたら悪質に過ぎる、という苛立ちだけだ。
「……あんたがヴィクター、てことはないよな」
隠しきれない苛立ちがそのまま声に乗って表に出る。
「そうね、イニシャルは同じだけど。彼ならもうじき来るはずよ」
ああ、そう。素っ気なく返事を返すとカルロスはドアを閉め、手近にある椅子を引いて座った。彼女はその音を背中で聞きながら、そっと深呼吸をする。さあ、勝負の時間だ。
「ミスタ・オリヴェイラ、皆が来る前にひとつだけあなたに聞きたいの」
相変わらずの苛立ち混じりの視線を背中に感じた。それで彼女が何者なのか、まだ気付いていないと知った。カルロスがなんとも答えない内に、ジルは体ごと彼の方を向き、正対する。そして震える指先を押さえ込むように自らの体を抱いた。
三年という月日は、どちらにも多少の変化をもたらした。かつて陽気で溌剌としていた男は積み重なった心労――と、時折度を過ぎる酒――によって、年齢の割にはやや老け込み、やや陰気で扱い辛そうな男へと変えられた。一方の女はと言えば、薬品の副作用で肌が白化し、元々は薄茶色だった髪がプラチナブロンドへと変化した。それから無理矢理荷担させられた悪事の記憶と罪悪感が、彼女の表情に影を落としている。
しかし基本は何一つ変わってなどいない。
互いを間違いなくその人だと認識するのに、たいして時間は掛からなかった。
男が琥珀の目を大きく見開いた。そうして数拍置いたのちに、泣き顔とも笑みとも取れない表情(かお)になる。後ろ姿に見惚れたのも、声が似ていると感じたのも仕方のないことだったのだ。それだけに、すぐにそうと気付かなかったことを悔いているのかもしれない。何千、何万もの人に紛れていようとも、見つける自信はあったのに。
でも、諦めなくてよかった。
安堵と共に彼は心の底からそう思った。
――ねぇ、カルロス。
祈るように、躊躇いがちに彼女は切り出す。
もう、問わずとも答えは分かっていた。だが彼女は確かな言葉が欲しかった。
「あなたは今でも……私の帰る場所?」
- Fin -
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