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2010.04.17.
期待と失望を繰り返す。
朝に、晩に。ドアを開けるたびに。そこにあの人が立っていないかと期待する。幻を見て、胸が痛む。
飽きもせずに毎日同じことを繰り返して、そんな痛みもすっかり日常の一部と化した。だが、慣れることはない。慣れる日なんて、絶対に来ない。それに、いつか終わる日が来る。そう信じている。
だってきみは「帰る」と言った。有言実行の人だし、俺と違って約束を違えたことのない人だ。他の誰でもない、ジル・バレンタイン、きみが“帰る”と言ったのだから、きっと帰ってくる。そうだろう?
ひとたび任務に赴けば、それが終わるまでは連絡しない。話し合ってそうと決めたわけではなかったが、俺たちの間でそれは暗黙の了解のようになっていた。理由は色々あっただろう。単純に互いに余裕のある時間が上手くかみ合わないってのがあったし、あとは情報管理の問題とか、任務に気持ちを集中させていたい、とか。でも一番の理由は必要以上に心配させたくなかった、ではなかろうか。俺は僅かなミスが命取りになるような仕事をしていたし、彼女だってそれは同じ。いや、彼女の場合は死ぬ以上に悲惨な目に遭う可能性が大きい仕事だった。
そばにいて何かをしてあげられないなら、いっそ何も知らないほうがいい。そうすれば、何も考えずに互いを信じて待つだけで済む。それで後悔することもあるかもしれないが、時には知らないほうが幸せなことだってあるんだ。
その時もそうだった。本来なら自分たち――彼女はクリス・レッドフィールドという男と組んで仕事をしていた――が行くような任務ではないのだが、どうしてもやりたくて無理矢理志願した。彼女はそう言っていた。誰かを逮捕しに行く、とだけ教えてくれて、それは確かにきみが行くような仕事じゃないなと思ったんだ。はっきり言ってやっつけ仕事だろうし、そんな手柄はもっと他の誰かにくれてやればいいのにって。
でも無理を通してまで志願していくのなら、それは彼女たちでなければ出来ない仕事ということだ。
彼女はきっとやり遂げるだろう。そう信じて疑わなかった。楽な仕事だから、じゃない。命を落とす危険は常にある。彼女自ら動くほどの相手ならある程度の警護はついているだろうし、そうでなくとも当然抵抗があるだろう。でも俺は盲目的に信じ、当然だと思っていた。彼女は任務を果たし、帰ってくる――俺のところに。
彼女が任務のために出かけて行ってから十日あまりが過ぎた頃に、滅多に鳴らない電話が鳴り出した。掛けてきたのはクリスで、まだ何も知らない俺はいつもの調子でそれを受けた。
俺とは対照的に、いつもとは全く違うクリスの声。嫌な予感がしたが、あえてそれを質の悪い音声のせいにする。嫌な予感ほどよく当たると言うが、今回ばかりは外れて欲しかった。
「ジルがMIAだ」
“MIA”は軍事用語だ。公式見解がどうであれBSAAは事実上の軍事組織であって、装備品から何から、軍との共通点を挙げるのは至極簡単だ。俺だって一時期そこに居たんだから知っている。MIAは“ Missing In Action (作戦行動中に行方不明)”の略で、明確に死亡が確認されなかった場合に使われる。BSAAでの作戦に従事して何か起きた場合それに分類されるってのは普通の軍隊じゃ考えられないくらい多くて、そう宣告されたら十中八九そいつは死んでいる。理由は単純だ。遺体が酷く損傷して個人の判別が不可能な状態にされちまうからだ。だから実際にはKIA(Killed In Action/作戦行動中に死亡)であっても、MIAにされるってのは良くある話だった。
でも、BOWの掃討任務ならいざ知らず、今回は誰かの逮捕だったはず。そんなことってあるのか。なけなしの自制心を総動員して、“その時”の状況を教えてもらう。
彼女たちは確かにBOWと遭遇した。新種だったようだがそいつにやられたんじゃないらしい。当初のターゲットを発見したときそいつは既に死んでいて、問題の状況はそこから始まったそうだ。
死んだターゲットのそばに、男が一人いた。黒ずくめで金髪のオールバック――実際に俺が遭遇したことはないが、ウェスカーとかなんとかいったはずだ――で、すぐさま二人は目標をそちらに切り替えた。二対一、数だけ見れば彼女たちに分があるが、いかんせん相手が悪い。銃弾は当たらず、打撃はかわされ、簡単に返り討ちに遭う。そうこうするうちにクリスが捕まり……。
咄嗟の行動だったのだろう。そういう人だし、俺だって多分同じ事をする。彼女は金髪男に体当たりをし、その勢いを失わないまま窓を破って、二人はひと塊になり、闇に呑まれて消えた。
クリスは疲れきった声で、しかし淡々と事実だけを話してくれる。きっと、すでに何度も繰り返し同じ事を話しているんだろう。あまりにも整然とした話し振りのせいで、現実感が奇妙に薄れる。
――すまない。今、総力を挙げて探している。
そう言い残してクリスは通話を切った。
あぁ。
通話の切れた電子音を聞きながら、俺はようやく理解した。
だから彼女たちは“無理矢理”志願して行ったんだ。彼女はその金髪の男を憎んでいたし、自分たちの手でどうにかしたいとも言っていた。滅多に姿を現さないそいつに遭遇できそうだと感じたから、だから……。
2006年の8月、北半球の世界では夏の盛りのことで、毎日が暑く、寝苦しい夜が続いていた。なのに俺は堪らなく寒くて、真冬の戸外に裸で放り出されたみたいに震えが止まらなかった。
――今でも時々思うことがある。何故俺はあの電話を取ってしまったのだろう、と。その時取らなかったとしても、精々数時間先延ばしになっただけだろうと分かっているけど、それでも。こればかりは“知らないほうが幸せ”とは言えないが、だとしたってそんなの知りたくなかった。知らずにいればそれが現実に起こったことなんかじゃなく、物騒な例え話で済ませておくことも出来たかも知れなのに。
* * * * *
彼女個人の“関係者”ではあっても、組織にとっては“部外者”だった。たとえ以前はその一員だったとしても、今そうでないなら何の役にも立たない。僅かな敬意も払われず、なんの権限もない、俺は過去の人間でしかなかった。捜索への参加は勿論のこと、せめて現場を見たいという願いさえも叶えてもらえず、ただひたすら知らせを待つだけ、というのは考えていたよりもずっと辛い。しかも届く報告と言えば“進展なし”の一言だけときた。明らかに、最初から行き詰まっていた。
とはいえ確かに彼らは全力で捜索してくれたんだろう。だがそれも、結局三ヵ月後に打ち切られた。
きみが死んだという証拠も、生きているという証拠も、そのどちらかを匂わせるようなものさえも、何も見つからなかったというのに。そのせいで彼女は事実上の死亡、とされてしまった。組織としては、それは必要な措置だったのだろう。いくら彼女が“オリジナル・イレブン”の一人だとは言え、成果の上がらない捜索活動に注ぎ込める時間と人と金なんてないだろうし、ただでさえあそこは慢性的な人手不足だ。やらなきゃならないことなんて他に腐るほどある。だからこれ以上の特別扱いは出来なかったに違いない。
でも俺には到底納得出来るものではなかった。
だって、ただ“消えた”だけだ。それ以上でも、それ以下でもなく。忽然ときみだけが消えてしまった。それだけのことじゃないか。
なのにどうして“死んだ”なんてことになるんだ?
彼女は生きている。
そう信じてはいても、どうしたらいいのか――どこをどう探したらいいのか――分からない。机やロッカーにあったという私物の詰まった箱を前にして、俺は途方にくれていた。箱は……怖くて開けられなかった。開けてしまったら、プライベートな部分に許されている範囲を超えて踏み込んでしまうような気がして、それは今でも受け取った時のままクローゼットの奥に仕舞い込んである。
死んだと証明出来ないなら彼女は生きている。そんな馬鹿げた、妄想にも近い希望にすがっている俺に、あいつはとどめを刺そうとでもいうかのように、ある知らせを持ってやって来た。
12月の第二土曜日、彼女の葬儀をやると言う。何故? そんな必要、全然ないじゃないか?
「これはケジメなんだ。やらなくちゃいけない」
手負いの獣のように――はたから見れば本当にそんな風に見えただろう――牙を剥いて俺はあいつに掴みかかる。だからだったのだろうか、あいつは冷静に対処し俺を宥めようとした。それにまた腹が立って……もう自制が利かなくなり始めていた。
それを察したのだろうか。なにか言いかけて言葉を呑み込み、憔悴した顔に痛みを浮かべて無言で立ち去った。
わかっている。俺と同じようにあいつも傷つき、苦しんでいると。振り返って自分の行動を悔い、己を責めている。わかってはいるが、理解出来なかった。やる必要のないことをやって自分を哀れみ喜んでいる、俺にはそんな風にしか見えない。
当然、参加なんてしなかった。
冗談でも真似事でも、君を殺す滑稽な儀式なんて見たくもない。
あいつらはなんて愚かなんだろう。
でも――
本当に愚かなのは一体どちらなのだろう? 生きていると信じる俺なのか、その瞬間を目撃したがゆえに、仮定を現実として受け入れ前進しようとするあいつなのか。
十中八九、愚かなのは俺。
それでも諦めるわけにはいかない。諦められるはずもない。ここで俺までもがその仮定を受け入れたら、彼女は本当に“死んで”しまう。俺にとっての彼女がそうであるように、俺は彼女の“帰る場所”でいたい。それは俺にしか出来ないことで、俺にはそれしか出来ない……。
* * * * *
当分きみは帰ってこない。そう分かってから、世界が色褪せてしまうまでたいして時間は掛からなかった。
きみのいない日常はこんなにも無味乾燥だ。
自分の存在意義さえ見失いそうになるほどの、味気ない時間の連続。きみに出会う前は、やっぱりこんな風だったのだろうか?
俺の願いはひとつだけ。
きみに会いたい。
ただそれだけを願い、今日もきみの無事を祈っている。
――あれからもう三年が過ぎた。
きみは一体何処にいるんだ?