04 : 終焉 1/2
2005.01.21.
世の中には三人、そっくりな人間が居るという。どうやらお前は思いがけずその二人目に出会ったらしい。
ほんの数日前までは存在すら知らなかった都市の片隅で出会った少女。あろうことか、彼女はかつてお前の腕の中で死んだ妹に瓜二つだった。20年の歳月を経て再びこの姿を目にしようとは、一体誰に想像出来たろう? 少なくともお前は二度と目にすることはないと思っていたはずだ。
今日の今日までその存在を信じた事はない。しかし結局のところ、神は本当に居るのかも知れない。少女に出会い、お前はそう考えるようになっていた。
肉体についた表面的な傷と同様に、目に見えない、精神的な傷も癒される機会があってしかるべきだ。だから多分、これは神が与え給うたチャンスなのだろう。20年前についたまま未だ癒えずにいる傷を癒すための。そしてあの時背負い込んだ罪を贖うための。チャンスであるに違いない。
* * * * *
1998.9.28. Clock Tower.
時計塔までの二ブロック。それは想像以上に苦難に満ちた行程だった。
幾度となく進路を塞がれ退路を断たれ、殺意に満ちた腐肉の壁を突破した。どれ程その行程が厳しいものだったのかは、この都市に投入されたU.B.C.S.隊員の生存率が一割にも満たず、ここに辿り着けた者がわずかに七名であった事からも窺い知れるだろう。
そうしてなんとかお前たちは時計塔に辿り着いたものの、これは数ある問題の一つをクリアしたに過ぎないと気付かされた。
この都市から脱出するには、郊外で待機しているヘリを呼ばねばならない。
その事を失念していた。
打ち鳴らされる時計塔の鐘、それを作戦終了の合図とする。同時にそれはヘリを呼ぶ為の合図にもなる。作戦指示書にはそのように書いてある。お前たちは鐘を鳴らし、また時計塔の安全を確保するためにそれぞれ敷地内に散った。
お前も警備を担当する区域、この施設の裏口である公園に面した納戸に足を向けた。相棒のキャンベルは鐘を鳴らす方法を探して施設内を探索するチームに入っている。本心を言えば勿論、お前はそちらに加わりたかった。こういった生死にかかわる何かを他人に託すのは好きではない。とは言え少女がお前の傍を離れたがらない以上、体力と精神力の消耗が激しい彼女のことを考えれば、施設内とはいえ探索に連れ回すのははばかられた。なにより、事実上役立たずで足手まといでしかない彼女の存在が、隊内の不和と士気の低下を招く原因となりかねない。
この段階で抱えるリスクとして、それは容認できる範囲を超えている。
だからお前は、すべての希望を彼らに託した。必ず彼らが鐘を鳴らし、救助ヘリを呼んでくれるものと信じて――願って。己の役割を全うしようと誓った。
……しかし、それも無理かもしれない。
納戸の隅で、高熱に苦しむ少女を抱きかかえている様な状況では。
自分を責めても仕方がないと分かっている。それでもあの時、もっと自分が注意深く行動出来ていれば。このようなことにならずに済んだかもしれないのに。
まだ二時間と経ってはいまい。
それは仲間と別れた直後の出来事だった。お前は少女を連れて、納戸へと至る渡り廊下に足を踏み入れた。そこは廃屋さながらの雰囲気に満ちた空間だった。ドアを抜ける前とは天と地ほどの差がある。たった数インチ間に挟むだけでこうまで変わってしまうという現実に、お前はどうにも慣れなかった。
壁から壁へと張り渡され、時には天井から垂れ下がる繊維様の物体が、一歩進むごとにまとわりついてくる。僅かな空気の動きにも敏感に反応して揺れるそれが、蜘蛛の糸なのだとわかったのは、廊下の角に捕らえた“獲物”を吐き出した糸で絡めて留め置くその姿を見たからだ。
人間に害を為すものはさておくとして、それまで彼らの一族を嫌悪したことはない。それどころか、美しいとさえ思ったこともある。だが、今目の前にある光景とその姿は、嫌悪すべきおぞましいものだった。5フィートはあろうかという体長もさることながら、その身体の下にある哀れな“獲物”の姿を目にした瞬間、お前は蜘蛛を忌むべきものとして認識した。
巨大な蜘蛛の餌食になっていたのは、お前とほぼ同じ服装の人間。頭がおかしな方向に傾いているせいで顔がよく見えないが、少なくともさっき別れてきたばかりの連中ではなく、また、顔見知りでもなさそうだ。他の連中ならば知っているのかもしれない。糸の絡まり具合から判断するに、彼が捕らわれたのは随分前の様だ。
U.B.C.S.に拾われるより以前にあの男がどれ程の汚いことをしていたのかは知らないが、この最期はあんまりではなかろうか。人間に殺されるならば、相応の報いを受けたのだろうと納得も出来る。しかし蜘蛛に喰われるというのは……。
――あんまりだ。
容赦なく突きつけられるこの現実とあの男の悲惨な末路に、胸が痛むと同時に激しい憤りも感じる。背後に控える少女に少し離れているようにと囁くと、感情に突き動かされるままライフルを構え、引き金を引いた。
10ヤードを切るこの近距離射撃、そして目を閉じていても外しようが無いほどの巨大な標的。最初は大きく膨れた腹部に、続いて直径1インチ程の目が複数個並ぶ平たい頭部に。次から次へと鉛の雨が降り注ぐ。
体中を撃ち砕かれた蜘蛛は、それでもなんとかお前を襲おうと身体の向きを変えた。脚の何本かをお前に向かって伸ばした。だが床に残った蜘蛛の脚は全身に広がる苦痛とバランスの崩れた身体を支えきれず、そのまま無様にひっくり返った。八本の脚が何かを掴もうと弱々しく空を掻く。音を立てて関節が軋った。
蜘蛛が鳴く、という話は聞いたことがないが、関節が軋るその音は断末魔の叫びに喩えて差し支えないだろう。ほどなくして音は止み、巨大な蜘蛛の脚は動きを止めた。
兵士としての本能がとにかく早く配置につけと叫ぶ。蜘蛛の死をおざなりに確認すると、お前は少女の手を取り廊下を進みだした。
蜘蛛を殺しても、激情が狭めた視野は元に戻らず、感情も高ぶったままだった。ゆえに、死骸の横をすり抜けたときに少女が気付いた微かなざわめきに気付かない。不安な面持ちで少女は蜘蛛の腹を見つめていた。
そこから数ヤード先にあるドアまで進む。これを開ければ納戸だ。これでまた暫くは、つまり仲間が鐘を鳴らすまでは移動せずに済む。その考えはお前の気をわずかにゆるませた。その時、少女が短く鋭い悲鳴をあげた。
何事かと振り向いて、そこにある状況に目を瞠った。床の古くてすり切れたカーペットが蠢き脈打っている……?
違う。
そうではなくて握り拳大の蜘蛛が、床一面を覆い尽くして迫っているのだ。見る間に蜘蛛の波はお前たちの足下まで到達し、足をよじ登り始める。さすがのお前でもこの光景には怖気を震った。荒々しくその場で何度か足踏みをして蜘蛛をふるい落とすと、同じように隣で必死に蜘蛛を払い落としている少女を抱き上げて素早く納戸に入った。中に化け物はいない。ろくに確認もせずに飛び込んだから、これは幸運だったと言えよう。
一緒に入り込んだ蜘蛛を踏み潰し、数匹は逃げるに任せた。こちらに向かって来ないなら、追いかけて叩きつぶすのも馬鹿馬鹿しい。そうして全ての蜘蛛を始末すると、抱えていた少女をその場に残して手早く室内を調べだした。
それほど広い部屋ではないのだが、天井がアーチ状で高いために実際よりも広々として感じる。右側には窓の下に家具やガラクタと見紛うような物が積まれ、正面奥には女性の胸像が三体並び、左の壁にはやはり女性――この場合は女神と呼ぶべきか――を描いた大きな絵画が三枚。三枚とも同じ人物が描いたようだが、サインがないので本当のところは分からない。絵にはそれぞれ時計が埋め込まれており、それぞれ違う時刻を指していた。動いている様子はない。
時計とは正確に時を刻んでこそ価値のあるもののはず。おまけにこんなところに掛けてある位だ、たいした物ではないのだろう。そう結論づけてお前は更に奥へと進んだ。
実際には、その絵画と時計には美術品以上の意味と価値があったのだが、お前はそれに気付くことはなかった。書斎で、お前があのいわくありげに置かれていた絵葉書を見ていれば、もう少しそれらの絵画に注意を向けていただろう。そして退路を開く手掛かりを得たかも知れない。そう思うと、我々は残念でならない。
女性像と低い壁の向こう側は、これこそ納戸と呼ぶに相応しい空間だった。様々な工具と木製の粗末な作業台、大きく重い釣り鐘(恐らく塔の上にある鐘の予備なのだろう)、それら全てが薄く積もった埃に覆われていた。
釣り鐘の手前にはまた古めかしいドアがある。仲間と別れる前に見た地図によれば、この向こうは公園に面した路地のはずだった。それを確かめるべく、かんぬきを外して細くドアを開けた。そこにあったのは日陰にたまる冷たく湿気た空気と石の壁。そこは確かに路地で、近くにバケモノはいないようだ。それだけ分かれば十分だ。お前は元通りかんぬきを掛けしばし思案した後、釣り鐘を押してドアを塞いだ。こうしておけば、万が一ドアが破られたとしてもバケモノ連中が雪崩れ込むのを防げるだろう。
欲を言えばトラップの一つも仕掛けておきたいところだが、それに相応しい弾薬が手元に無く、また、あまり効果も望めないのでは仕掛ける意味がない。頷いて己の仕事にひとまずの満足を示すと、お前は踵を返した。
女性像の脇まで戻ってお前の足が止まる。そこから見えたものの所為で心臓が一度大きく跳ね、それからかつてない程の早鐘を打ち始めた。何故、何故、何故。答えのない疑問が渦巻く。もつれる両足を必死に動かし、喉に詰まりそうなほど濃密な空気を掻き分けて少女の元まで進んだ。
力無く横たわる、少女の元まで。