03 : 変化
2004.11.17.
「申し出はありがたいが、私はここに残るよ」
父親はそう言って首を横に振った。
投げられた命綱に見向きもしないどころか、彼はそれを蹴り返してきた。あまりの愚かさに怒りが込み上げてくる。
「ばかを言っちゃいけない。時計塔まで精々二ブロックだろう? それだけ移動すれば助かるってのに、こんな所でむざむざ死なせるわけにはいかないんだ」
キャンベルがなおも食い下がる。説得する為に作ったあの真摯な表情が全くの偽物だと分かっているのは、多分お前くらいだろう。キャンベルは目的の為なら手段を選ばない男だ。必要とあらば聖人の如く振る舞う術(すべ)も心得ている。
なんとしてでも時計塔へ辿り着き、この都市から脱出する。その為にはどうしてもエサが――身代わりとなってゾンビに食われてくれる人間が――必要だとキャンベルは堅く信じていた。
「この都市には妻が眠っているんだ。彼女を置いては行けない」
父親は部屋中に溢れる写真の一つに目を向ける。視線を辿ると赤毛の女性が写った一枚に行き当たった。写真の中で、30歳前後の南部美人が緑豊かな公園らしき場所で明るく笑っている。どうやら彼女がこの男の妻だったらしい。
写真からキャンベルへと視線を戻すと、穏やかに笑って言った。「それに、彼女との約束もある」
キャンベルはただじっと相手を見つめた。父親が笑った理由も、言葉が意味するものも理解出来なかったのだろう。誠実そうな視線で困惑を周到に覆い隠し、更に相手が何か言うのを待つ。
「さいごまでそばに居るってね。……約束したから」
遠い過去を見るような瞳によぎった一瞬の光。やはりキャンベルにはその意味を理解することも推測することも出来なかった。ただ一つ分かったのは、父親をこの家から連れ出すのはどうあっても無理だということだけ。息を吐きながらただ「そうか」とだけ呟くと、彼はゆっくりと身体を起こした。立ち上がったキャンベルからは聖人の如き誠実さは跡形もなく消え失せており、完全にいつもの冷酷な男に戻っていた。黒い瞳の奧に底知れぬ深い闇が垣間見える。
無骨な手がホルスターに収まったSIGの銃把に伸び――
――クソ、声まで同じだ。
初めて彼女の声を聞いた瞬間、その意味を理解するよりも先にお前はそう思った。容姿のみならず、声まで同じとは。
少女の一挙手一投足にことごとく記憶を揺さぶられ、不安定に焦点の定まらないお前の目。それを見て彼女はもう一度、今度は一語一語区切るようにして言った。はっきりと。キッパリと。言い放つ。
「パパが一緒じゃなきゃ、行かないわよ」
“パパ”
その言葉でお前は現実に立ち返る。彼女にとってお前など街角ですれ違う見知らぬ他人ほどの価値もないのだと、この瞬間に悟った。何か言おうと息を吸い込んだその時、激震が走った。
SIGから9ミリ弾が発射される軽い音。にもかかわらず、それは部屋中のありとあらゆるもの――魂までも――を揺さぶった。お前は反射的にライフルを構え、驚き硬直している少女を背中に隠す。守ってやらなければ。
「キャンベル! ヘイ、どうした?!」
お前と少女が居るキッチンからは、発砲があったと思われるリビングは見えない。廊下の先に銃口を向け、返答を待つ。普段ならば間髪置かずに返ってくる返事がない。
「キャンベル!」
そういえば、銃声の前には悲鳴も、助けを求める声もなかった。その事実が気に入らない。どうにも嫌な感じがした。
ようやく銃声のショックから抜け出した少女がお前の陰から飛び出し、横をすり抜けようとする。慌てて腕を掴むと強引に引き戻した。リビングで何が起きたにせよ、安全でなくなった場所に無防備な彼女を飛び込ませたくない。
「離して!」
掴まれた手を振りほどこうと少女が暴れる。彼女を押さえ込む為に、ライフルを手放し両手で抱えなくてはならなかった。これが男なら、二・三発も殴りつければ簡単に大人しくさせられる。なんの躊躇いもなくそうするだろう。ところが相手が女、それも少女では……。羽交い締めにするのが精々だ。
「おいおい、ナニやってんだよルース?」
突然の声に意表を突かれたお前は、緊張した面持ちで顔を上げた。廊下とキッチンの境に、いつの間に現れたのか、相棒が立っている。いつもと変わらないその立ち姿を見、安堵するより先に血の気が引いた。
彼の笑顔とともに目に飛び込んできた、半身を彩る鮮血。幸いにも彼自身が流したものでは無いようだった。それなら心配はない。だがそれは何――あるいは誰――の血液(もの)なのか。お前はその問いを口にすべきでは無かった。少なくとも、少女の前では。
キャンベルは答えない。ただ少女を一瞥したのみ。だがそれで十分だった。たったそれだけでお前も少女も理解した。
外に居るゾンビ共のものとは全く違う鮮血の臭いと、一度きりの銃声、そしてキャンベルという男の性格を鑑みて察するべきだったのだ。しかしそれももう手遅れだ。思いがけない力を発揮して、お前の腕から逃れた少女がキャンベルの横をもすり抜け、リビングへ駆け込む。そしてその惨状を見てしまった。
魂を打ち砕くような悲鳴とも絶叫ともつかない声が、少女の細い喉からほとばしる。その悲痛な叫びは聞くに堪えない。しかしこの事態を引き起こした当の男はと言えば、呆れたように肩を竦めただけだった。
「さぁ休憩は終わりだ。行くぞ」
言うとキャンベルはずっと手にしたままだったSIGをホルスターに戻し、負い革で背中に回していたライフルを両手に抱えた。
お前は床に膝をついたまま、顔に付着した血を拭おうともしない相棒を見上げる。彼は嗅ぎ慣れた血臭に陶酔したような目をしていた。信じ難いことだが、どうやらキャンベルは自分が引き起こしたこの状況を楽しんでいるらしい。
お前の背筋に冷たいものが走った。これがこの男の本質なのか。長いこと一緒にやって来た相棒が、まるで知らない、初めて会った他人のように見えた。
狂ってる。
都市も、お前たちをここに送り込んだ会社も、キャンベルも、もちろんお前自身も含めた何もかもが。狂っている。正常なことなど、何一つ無い。
この世界は狂っている。
キャンベルが玄関に向かって歩き出した。立ち上がり軽く頭を振ると、お前は逆方向のリビングへ足を向けた。あの娘を連れ出さねばならない。父親が死んだ今、彼女をこの場に引き留めるものはもう無いだろう。
お前の行動に気付いたキャンベルが苛立たしげに言う。
「ガキなんて放っておけ!」
彼女がただの子供だったなら、恐らく相棒の言う通り置き去りにしたことだろう。しかし彼女は“ただの子供”などではなく、かつて失った妹と瓜二つの姿なのだ。お前はあの姿をもう一度失うなど耐えられそうにないし、そうと考えるだけでも苦痛だ。なにより今ならば失わずに済むかもしれないのに。キャンベルに対し、顔も視線も向けずに断固とした口調で言い返した。「いいや、連れて行く」
低く罵る声が聞こえた。滅多にない事だが、お前がこんな風に言い出したらどうやっても、誰にもそれを撤回させられないとキャンベルは分かっていた。
室内にはむせかえるほどの血臭と悲嘆が充満していた。
その男はお前が最後に見た時と同じ場所に居た。ソファーにもたれ頭を仰け反らせている姿は、まるで泥酔してそのまま寝入ったかのようにも見える。そうではないと分かるのは額に銃弾が飛び込んだ痕があり、また、後頭部にはその何倍も大きな射出孔が開いているせいだ。その両方から流れ出た血液が床に敷かれたカーペットに大きなしみを作っている。
ただ、死に顔は意外にも穏やかで、それがせめてもの救いになるだろうか。
手を伸ばし見開かれたままの虚ろな瞳にまぶたを引き下ろしてやった。少女は父親の膝にすがってむせび泣いている。その姿に胸が痛んだ。彼女の側に膝をつくと、自然に言葉がこぼれた。
「すまない」
それ以上の言葉を見つけられなかった。顔を伏せたまま泣き続ける彼女の肩に手を置き、優しく囁く。
「おいで。ここを出よう」
「そう言って、私もパパみたいに殺すんでしょう!」
置かれた手を払いのけ、彼女は目をすがめて言葉を叩き付けてくる。剥き出しの憎悪と敵意に息が詰まりそうだ。この姿の少女にそんな感情をぶつけられるのは辛かったが、そうすることが今生きる力になるのなら、耐えられる。気の済むようにするがいい。そうお前は考えた。
「そんなこと俺はしないし、あいつにだってさせない。信じてくれ、俺は君を助けたいんだ」
必死だった。この娘に生きて欲しかった。どれ程お前が真剣にそう思っているのか、少女に伝えるのは難しい。ならばせめて信頼するに足る表情と誠実さを見せられたらと、痛切に思う。
「……信じてもいいのね?」
少女の敵意さえこもる用心深い視線に、お前は力強く頷く。
しばしの迷いを見せた後、少女はためらいがちにお前の腕に手を置いた。
「連れて行って。あなたを信じるわ」