鐘の鳴る丘

05 : 終焉 2/2

2005.03.06.

 左腕に少女を抱いて、納戸の隅でうずくまる。
 状況は芳しくない。事態はお前の手に負えない所まで進展している。それどころか、誰の手にも余るだろう――勿論、神の御手にさえも。
 子供を一人助けるくらい、造作もないことだ。その為にどうすれば良いかも知っている。自分はもうあの時の非力な少年ではない。数多の戦場をくぐり抜けてきた、力も経験も、そして知識も豊富な練達の兵士なのだ。
 そう信じて疑わなかった。
 少女が倒れたのは、単に疲労のせいだと思いたかった。しかし彼女の容態――浅く速い呼吸、火照った頬や額、じっとりと浮く汗――と、いつの間にか少女の左脚についてた傷が、嘲笑うかのようにその思いを否定する。極々小さな傷だが、形状から推測するに、どうも何かに咬まれたものらしい。凶悪なウィルスがはこびるこの都市にあっては、どんなものが致命傷になってもおかしくない。特にウィルスで変異した生物につけられた傷とあっては、この先にどのような結末が待っているのか想像するのはたやすかった。
 その想像はもう一つの純然たる事実を突き付けてくる。それはウィルスに対処するすべを知らない以上、どう足掻いたところでお前には少女を救えない、ということ。
 恐らく少女は感染してしまったに違いない。
 ならば、やがて彼女はやつらの仲間になるだろう。
 受け容れ難く重苦しい現実が、まるで毛布のようにお前たちの両肩を包んでいた。


 高熱で身体を震わせる少女の手がおずおずと伸びてきた。躊躇いがちに動くその手はお前が身に付けた堅いタクティカルベストの一部を掴む。まるでお前がそこに居ることを手探りで確かめているかのようだった。少女は力を振り絞ってお前の左胸に額を押しつけた。
 大丈夫だ、俺はここにいる。安心しろ……少女の行動を受けてそういった言葉が思いついたが、ついぞそれらの言葉はお前の口から発されなかった。そういった気休めを言い慣れない所為で、どのように言ったら良いのか分からなかったのだ。だから言葉の代わりに、お前は彼女の細い身体をしっかりと抱き寄せ直した。時として言葉よりも行動の方が正確に思いが伝わることもある。
 お前の思いは規則正しく響く心臓の鼓動と共に、確かに彼女の耳に届いたはずだ。守られている。力強い腕の暖かさと心地よさ、それを感じていられるならば不安も恐れも抱く必要はないのだと、少女が思ったとしても不思議ではない。少女はお前の鼓動に合わせるように瞼を閉じると、安心したように息を吐いた。
 預けられた身体が徐々に重みを増していく。緩やかに。眠りに就く時のように彼女の身体から力が抜ける。
 それがあまりにも自然で、且つ奇妙な幸福感があったせいで、お前はすぐに気付かなかった。少女に起きたこの“変化”に。気付いた瞬間、血の気が引いた。ついで感じたのは、ギリギリで留まっていた奈落の淵から、底へ向かって転げ落ちていくような感覚。
 ――またか。またなのか!
 力の無い手が床の上へとずり落ちる。少女は呼吸をしていない。あれほど激しかった身体の震えも、止まっている。
 そんなことがあって良いわけがない。この現実はどうにも受け容れ難い。否定したい一心でお前は少女の細首に指を当て脈を、さらに肩や胸を注視して何かしらの生命兆候を探った。
 ……何もない。何も感じない。
 肌はまだこんなにも熱いというのに、この薄い皮膚の下には命の源たる血液の流れがない。少女の肺は、もう二度と膨らまない。あの時と全く同じように、お前が腕に抱える“それ”は、人の形をした生肉の塊となり果ててしまった。
 いまは、まだ。
 しばしの時を経た後に、もしかしたら少女は再び動き出すかもしれない。かのウィルスに感染したもの全てがゾンビとなるわけではない。この少女はゾンビとならずに済む幸運な者の一人だろうか? そしてもし少女が目覚めてしまったとしたら、その時お前はどこにいて何をしているのだろうか。
 お前はその答えを知っているし、勿論我々も知っている。
 しっかり掴んでいた筈の少女の命が両の手からすり抜けていくさまを茫然と見ている事しかできなかった。あの日と全く同じ様に。すり抜けていくのを感じながらお前は考える。この娘だけはどうしても助けてやりたかった。それこそ、自身の命を引き替えにしようとも、だ。何に代えても守りたかった。無限の可能性を秘めた少女の人生を。その為にお前はこの世の地獄を見ながらも今日まで生き延び、この都市に送り込まれたのだと思った程であったのに。
 あの時少女の前に膝をついて言った言葉は、誓って真実だ。しかしもう叶わない。お前は己の無能と無力を呪い、絶望する。

     * * * * *

 それからまたいくらかの時間が過ぎたのち、探索チームにいたはずのキャンベルがふらりと納戸に現れた。室内を見渡し状況を把握し終えると、部屋の隅で少女を抱えてうずくまるお前の傍に膝をついた。死体を抱き、俯いたまま視線すら上げないお前の顔を覗き込む。はっきりと浮かんだ悲嘆の中に絶望の臭いを感じ取り、鼻に皺が寄った。気に入らない、という表情がはっきりと浮かぶ。
「だからこんなガキは放っておけと言ったろう」
 したり顔でキャンベルは言った。自分の命は勿論だとして、その他に執着し大切に思うものを持つ事が悪いとは言わない。しかし彼らのような人間にとって、時にそれは致命的な過ちを犯す原因ともなる。特にこのような場所、状況で行きずりの人間に執着心を抱くなど、愚の骨頂ではないのか。
「来いよルース。こっちも何人かやられちまって手が要るんだ」
 お前は首を横に振る。
「他を当たってくれ。俺はここを守らなきゃ」
 掠れた声などお前らしくもないが、そう言うだけでも最大限の努力が必要だった。もはやお前には生きようとする意志も気力もない。もしかしたらキャンベルはそのことに気付いているのかも知れないが、その理由までは理解しないだろう。「他の奴なんかにおれの背中は任せられねぇ。いいから来いよ」
「俺はもう……いいんだ」
 背負い続けるには重くなりすぎた罪の意識、そしてこんな痛みと喪失を抱えたまま、これ以上は生きていけない。
 キャンベルの表情が一瞬険しくなる。もういいとはどういうことか。それから苛立ちを精一杯隠した、歪んだ微笑みを浮かべて言った。
「なぁルース、俺はお前のこと気に入ってんだぜ? 頼むから俺を失望させないでくれ」
 生き延びるチャンスはまだある。そのために足掻く時間も十分にある。なのにそれらと共に生を丸ごと放棄するお前に、キャンベルは腹を立てていた。これが他の人間ならば気にもしなかったろう。しかし共に生き延びたいと思う程度にはお前のことを大切に考えているらしい。
「来いって言ってンだよ。ガキの死体なんか放っておけ!」
 怒気を孕んだ囁き声は凄みがあった。
「だめだ、守ってやると言ったから……それに俺には生きてく自信がない」
 拒絶の言葉に、キャンベルは苛立ちのあまり床を殴りつける。これは裏切りだ。長年組んでやってきた自分に対する裏切りに違いない。こんな事になるならあの時ガキも一緒に殺しておくんだった――
 歯を食いしばり、疲労から充血した目でキャンベルはお前を睨みつける。それから立ち上がると足音も荒く大股でドアの前まで移動した。
「あばよ、ルース。お前はいい相棒(ヤツ)だったよ」
 振り向きざまに放った言葉に継いで、SIGの銃口が二度、火を噴いた。


 着弾点の腹から湯気が立つほど熱い血が流れ出し、ぐっしょりと濡れた戦闘服が身体に張りついた。同時に急速に身体が冷え、力が抜けていく。服が吸収しきらなかった血液が身体の下に海を作っている。その瞬間が近づいていた。もう一分と保たないだろう。混濁し途切れる意識を必死で繋ぎ合わせ、最後の慈悲を乞うた。
 あの時も。そしてまた、今も。
 ただ一度の鐘を鳴らすことさえ出来なかった。
 お前は希望する。
 誰でもいい。あの強情な鐘を鳴らしてくれと。一度でいいからあの鐘を、弔いの鐘を鳴らしてくれ。
 ―――この娘の為に。
 そして、この都市で足掻き続ける生者の為に。鐘よ、声高らかに歌いたまえ。
 今更のように遅れて来た痛みが最後の思考力を奪い去ろうとする。その中で髪を揺らし頬を撫でた一陣の風にお前が感じたのは、神の両腕(かいな)だった。まるで慈悲深い神が赦しを与えにやって来たようだと、感じた事だろう。
 そしてそれは、確かにそうであったのだと、我々は希望する。



- Fin -
<<Back





アトガキ

 お……終わった……。若干タイトルが意味不明になりながらも、なんとか終わりましたよ『鐘の鳴る丘』。ここまで来るのに随分と時間が掛かったなぁとしみじみです。数えてみたら、丸九ヶ月だ! うわっ。しかしその割に内容が無いのは毎度のことよ。
 ということで、燃え尽きて真っ白な灰になりかけている瑞樹ですよこんばんは。
 ひっぱりまくってようやっとエンドマークに漕ぎ着けました。色々説明が足らなかったり動機付けが弱すぎたりしている部分が多々ありますな。最後はもっと突き放して、三人称視点とは決定的に違う、二人称視点であるが故のキャラクターとの絶対的な距離をひょ……表現……したかったのになぁ。いまひとつ上手くいったとは言い難く。それぞれの傭兵が抱える過去や思いを書ききるなんて、私には荷が勝ちすぎたようです……。そもそも 「これのどこがバイオだよ?!」 って気もひしひしとしておりますけんども。
 ルースの死に方については、結局キャンベルさんに手伝ってもらわなきゃどうにもならなかったです。最初の頃は、リッカーとかハンターとかが候補に挙がっていたんだけどね。そしてキャンベルさんの 「おれたちだけ助かればいい」 というセリフを使えなかったのが心残りだ。言うはずだったのに! 違うセリフに書き直しちゃったですヨ。
 それからえぇっと、余程のことがない限り、私もう二度と二人称視点でこんな語りの話なんて書かない、とここに宣言いたしたく。初めてだし、面白いことは面白かったんですけどね。それと同じくらい辛かったのよ。一人称だって三人称だって難しいことには変わりないけど、それでも二人称よりは……ッ。まぁいい、終わったことさ。

 名無し傭兵ズの話についてはもう暫く書かないと思います。これで気が済んだし、そもそももうネタが……(笑) リクエストがあったり発作起こしたりしたらこの限りではありませんけど。
 それではここまでお付き合いくださって本当にありがとうございました。
 また次回、別の作品でお会い戴けましたら幸いです。