02 : 邂逅
2004.09.27.
降下してから一昼夜が過ぎた。
この都市で遭遇する全ての事が常識の範疇から大きく外れていた。この都市はお前の目から見ても異常であったが、同時に、実に正常な世界でもあった。命を危険に晒し、困難に打ち勝ち生を得る。これほどまでに慣れ親しんだ世界は他にない。
“君は他にどんな世界を知っているというんだね。君が出来ることを言ってごらん――殺し以外にだよ?”
あれはわずか二年前のことだ。U.B.C.S.に入らないかと誘われた時、一度は断ろうとした。その気配を察知した相手――単に“コーディネーター”とだけ名乗った男――が言ったのがその言葉だった。返答に窮すると同時にお前は悟ったはずだ。否定や反論の言葉はそのままそれまでの自分を否定することにしかならず、もし生き続けたいならその申し出を受ける他道はないと。
お前はこれ以外の世界を知らない。
それは今も変わらない、紛れもない真実だ。
――1998.9.27. Crowded Street.
扉を抜けて部屋から部屋へ、隣の建物へ、通りの向かい側へ。
兵員回収地点の時計塔を目指し、お前たちは一心不乱に突き進む。
ゾンビたちの見た目の不快感と、彼らが発するねっとりと絡みつくような濃い腐敗臭はどうしようもない。だが動きはと言えば案外単調で、慣れてしまえばその手から逃れるのはそう難しくなかった。しかも、いよいよとなればお前たちには奴等を足止めする為に使える“おとり”があった。
あの商業ビルで見つけた無力な市民を“おとり”に使う――非道なその手段は、予想以上に有効だった。おとりとして使われた者たちはそうと知るはずもなかったのだが。彼らがその身を挺して稼ぎ出した時間はほんの数秒に過ぎなかったが、それでもお前とキャンベルがゾンビ共から安全な距離を取るには充分だった。
手元にある弾薬が心細くなれば死んだり、傷ついたりした仲間や市民から奪い取って補充する。あるいは廃墟と化した店の棚を漁りもした。この国なら大抵の店には防犯用に拳銃の一丁や二丁、当たり前のように置いているからだ。銃砲店なら尚良い。それらを持ち去ったとしても、こんな状況ならその行為を咎める者もない。
そうやってお前たちは必要な物を手にし、時計塔へ続く血路をゆっくりと着実に切り開いていったのだった。
幼い頃から毎日繰り返してきたことと全く同じ。
今も昔も、お前が棲む世界は相も変わらず単純だ。生き残ることだけを考え、行動すればいい。そしてそれはお前たちが最も得意とするところだった。
* * * * *
それほど遠い場所でもないはずだ。
なのに二日を費やしてもまだ時計塔に辿り着けない。遅々として進まぬ歩みにお前たちはつのる苛立ちを隠せなくなってきていた。今“おとり”が手元にひとつもないことがそれに拍車をかける。身軽に移動出来る分、いざ危機的状況に陥ったときのことを思うと不安があった。加えてとうに嗅覚は麻痺しているとはいえ、刺激さえ伴うこの濃密な腐臭が、じりじりとお前たちの集中力と忍耐を削いでいく。
どんな時でもそうだが、特に今この狂った世界に於いては焦りと苛立ちは禁物だ。
お前たちは互いをなだめ、励ましながら一歩、また一歩と歩を進める。お前が――お前たちと言うべきか――それを見つけたのは、そんな折だった。
午後も遅い時間。行く手を阻むバリケードを迂回して路地を抜けると、洒落たアパートが建ち並ぶ区画に出た。
今この都市を満たすものといえば肉が腐る悪臭と、ゾンビ共が発する狂おしい程の呻き声だけ。特に音のほうは――自分たちが発したものを除いて――それ以外のものを耳にしていない。だから“それ”に気付いたとき、置かれた状況も忘れ、お前たちが互いに顔を見合わせたのは、無理ないことだろう。
どこからか流れてくる音の連なり。高く、低く、様々な音が重なり合って織りなすそれは、荘厳な雰囲気さえまとう。それは数世紀にわたり演奏され続けてきたクラシック音楽だった。お前たちにはまるで興味のない分野だっただけに、作曲者もタイトルもとんと見当が付かない。ただ、それが奇妙に落ち着いた旋律であることは感じ取れた。
いかなる名曲であろうとも、聴衆は己の餓えを満たすことにのみ全ての情熱を注いでいる能無しゾンビだけ。これでは、巨匠と呼ばれるかの作曲家の魂もうかばれまい。しかしだからこそ、音源にいる人間はこの曲を選んだのだろうか? その曲はこの都市の惨状と奇妙に合っていた。
葬送行進曲。
もしこれがそうであると分かっていたならば、恐らくお前たちは彼――あるいは彼女――のいささかひねくれたユーモアセンスを讃えていたことだろう。
しかしお前たちに分かったのは、これが生存者がいる証拠に違いないということだ。お前たちはアパートの一室に、音源へと近づいていく。ここだろうと思われる部屋のドアを叩き、誰かいるのかと声を掛けた。
たっぷり十秒は待って、もう一度呼びかける。するとやっと部屋の中から生きた人間が発する気配とくたびれた男の声が返って来た。やがてドアに掛かっていたカギが外されるなり、お前たちはその内側へと転がり込んだ。
そこは全くの別世界だった。
何もかもが“正常”に見える。いかにも個人的で実用性のなさそうな品々がそこかしこに飾られているその室内は、まるでホームドラマに出てくる典型的な家庭の様子そのものだ。これまでそういったものを殆ど持たず、機能と実用性のみを追求したような場所でしか生活したことのないお前たちにとって、これは最も縁遠い空間だった。そしてもちろん、壁を隔てた数インチ向こうの世界と比べても、別の世界だ。
ドアを開けてくれたのは、先程聞こえた声から想像した通りのくたびれた中年男だった。背が高く、元々細いのに輪をかけてげっそりとやつれているせいで実際の年齢より十歳は老けて見える。彼は玄関先で戸惑うお前たちを部屋の奥へと招き入れた。
リビングへと案内する道すがら、男はキッチンの中に声をかける。どうやらそこにもう一人いるらしい。
いつもの威勢はどこへ行ったのか。慣れない物で溢れた空間の真ん中で、どうしても居場所を見つけられない。いたずらを咎められた子供のように所在なくお前たちは立ちつくした後、勧められるままに革張りのソファーにその身を沈めた。
しばらくするとキッチンからトレーを捧げ持った娘が現れた。その娘を目にするなりお前は息を呑み、己の正気を疑う。
――まさか、ありえない。だって彼女は……。
記憶はすぐさま目の前の人物を否定した。だがこれは確かに現実だ。おどろおどろしいホラー映画さながらの様相を呈している市街地が現実であるのと同じように、少女は確かにそこに存在している。
別人なのだ。初めて会う赤の他人。うりふたつだが、お前の妹ではない。なぜなら妹はその腕の中で死んだのだから。
相棒に悟られぬようそっと深呼吸をし――知ったら馬鹿にしたようにまた鼻で笑うに決まっている――なんとか気持ちを落ち着けると、相手を警戒させない程度にじっくりと娘を観察した。
13、あるいは14歳。それ以上ではないだろう。美人と呼ばれるほどではない。だが子供らしい愛嬌がある。ふっくらとして艶やかに丸みを帯びた肌は、十分に栄養を摂取しているようで、飽食の世界で生きる人間に相応しい姿だ。その姿にお前は軽い嫉妬を感じる。
そして無意味な仮定が頭をよぎっていった。
もし、この娘が食べ残した一口分だけでも妹が口に入れられていたら……。あの子は今も生きていられただろうか?
* * * * *
“それ”が一体何年前の出来事なのか、もう正確に数える事は出来ない。だが少なくとも十年以上は経っている。それだけの年月が過ぎた今なお、褪せもせずにお前の記憶に留まり続ける光景があった。
それは思い出すたびに鮮やかさを増し、たった今付いた傷のように痛み血を流す。そして、お前の顔を苦痛で歪ませる。
悔恨、苦痛、憐憫、憤怒。
その他そういったものの一切合切がないまぜになった感情が津波の様に押し寄せて、お前を一息にその日へと連れ戻す。
実際には20年程昔の、別の国での事だ。
内戦の砲火が国土をなめる。部族間の諍いに端を発するその戦いはお前がまだ乳飲み子だった頃に始まり、「少年」と呼ばれる年齢になってもまだ収まってはいなかった。動ける男は片端から戦場に駆り出された結果、見捨てられる農地が増え、農具が大地を掘り返すよりも銃弾や炸薬が大地に穴を穿つ回数の方が遙かに多くなった。土地や空気からのどかな堆肥の臭いはどこかに失せ、代わりに燃えた火薬と血臭、肉が焦げ腐乱する悪臭が染みついた。
例に漏れずお前も戦場に連れて行かれた。農具を持つはずだったその手に握らされたのは銃とナイフ。それを拒否することは許されなかった。来る日も来る日も、火薬の味がする空気を肺一杯に吸い込んで、血液で捏ねられた泥の中を這い進んだ。
戦場に出てからおよそ二年後。
偶然にもお前は、久方振りに故郷の土を踏む機会に恵まれた。部隊の進路上にたまたま故郷があったのだ。付近の地理に明るい事を買われ、お前は偵察部隊に入れられていた。お陰で他の多くの者よりも早く、その惨状を目にすることになる。
懐かしいはずの村。しかし記憶にある様子とはすっかり変わってしまっており、全くと言っていいほど人気(ひとけ)がなかった。全ての建物が黒く焼け焦げ、無傷のものなど何一つない。
呆然と村を歩き回り、記憶を頼りに一軒の家を探す。ほどなくして足を止めたのは、半分ほど焼け、屋根が傾き今にも崩れそうな小屋の前だった。それが確かに自分の生まれ育った家だと理解するまでに数分掛かった。
これは一体どんな種類の悪夢なのだろう。全く見当がつかなかった。
意を決して家の中に踏み込むと、お前の鼻は焦げ臭さの中に微かな異臭を嗅ぎとった。内蔵が腐り始める時の、あのすえた臭い……。これがどういう臭いかは知っているし、何を意味するかも知っている。だがどうしてこんな臭いがするのか分からず、顔をしかめ薄暗い屋内に目を凝らす。そうしてお前は見つけてしまった。“彼女”の姿を。
ボロボロになった布を辛うじてその身に纏い、踏み固めた地面の上に直に横たわっていた。記憶にある彼女も決してふくよかではないが、それでも痩せた、という表現は控えめに過ぎる。身体全体から肉が削げ落ち、骨の形が皮膚の上からはっきり分かるほどで、一見してもう長いこと食べ物を口にしていないと知れた。
あんまりだ、とお前は思ったことだろう。自分はそれでも毎日何かを食べていられたのに、彼女は……。よろよろと近づくと、この世で唯一人自分と同じ血を持つ妹のそばに膝をついた。そして彼女の名をささやいた。
反応がない。虚ろに開いた目を覗き込む。焦点の合わない瞳は何も認識していないようだった。何度も何度も名を呼びながら、彼女をそっと抱き起こす。片手で彼女の頬を包むように撫でた。
それは壁の隙間から差し込んだ光の悪戯だったのかもしれない。ほんの一瞬、彼女の瞳が焦点を結び、輝いたように見えた。それから口元が微かに動き――
ほほ笑んだ。
大きな月が昇っている。足下にくっきりとした影が落ちるほどその光は強い。
お前はあの後一旦部隊に戻り、暗くなるのを待って再び村にやって来た。
痩せ細り、骨と皮ばかりになった彼女を盗んできた毛布でくるむ。抱え上げた彼女の亡骸は羽毛の様に軽かった。デッドウェイトという言葉があるくらいで、たとえ実際の重さは変わらなくとも、死体というのは生前よりも遙かに重く感じるものだが。
村の外れにある共同墓地。堅く乾いた大地に浅い穴を掘り、底に彼女を横たえた。機械的に身体を動かし土をかける。小さな塚を作ると、その頂上に拾ってきた木切れを突き立てた。
弔いの儀式はない。涙もなかった。
彼女を埋葬するだけで精一杯であり、涙を流すにはあまりにも心が冷え過ぎていた。
それからほどなくして、お前は逃げるように――実際それは逃げる以外のなにものでもなかった――国を離れた。お前とこの戦火に覆われた国とを繋いでいた唯一で最後の糸が消えたあの時、国に留まり戦う理由さえもなくなったからだった。
以来このことは誰にも、そう、長い年月を共に過ごし生死を分かち合ったキャンベルにさえ語らなかった。この先も誰かに語ることはないだろう。お前にその気がないと、我々は承知している。
十年以上の年月を経て再び目の前に現れた“彼女”。
このことに対し、神を罵るべきなのか、それとも感謝の祈りを捧げるべきなのか。どうにも判断しかねていた。それというのもこの出会いが単なる偶然ではなく、超自然的な意志によって周到に仕組まれているような気がしていたからだった。