01 : 籠城
2004.06.27.
あの日の償いが出来るのなら
この命を差し出してもいいと、思った
1998.9.26. Racoon City.
この都市の空気は恐怖と絶望で満ちていた。その空気を吸い込んだお前の中でも、僅かずつそれが蓄積を始めている。だがお前はまだそれに気付いていない。
午前九時。作戦開始からたったの三時間しか経っていないのに、当初十人いたチームのメンバーはあっという間に二人にまで減った。その二人の内の一人がお前であり、お前の相棒であるキャンベルだ。
恐らく、降りた場所が悪かったのだろう。お前たちが降り立ったのはこの都市の中心を太く貫く、メインストリートだった。まだヘリの中に居たときに見た光景、それは筆舌に尽くし難い。降下予定地点に到達し、その場所をのぞき込んだ瞬間お前たち全員が感じたのは、純粋な嫌悪感と、悪意ある絶望だった。
正気の沙汰とは思えなかった。沢山の腐乱死体がうごめいている、そのただ中に。どうして降りて行けようか。自殺行為だ。いや、それよりもきっともっと酷い。命令なんてクソ食らえ。パイロットを脅し、締め上げ、どこか違うところ――この街以外ならばどこでもいい――へ連れて行かせたい。そう考えた事を、我々は知っている。
しかし結局は太さ一インチはあろうかというロープを蹴り出し、降下したのだった。そうする以外にどうしようもなかったのだから、仕方がない。命令不服従と逃亡者に与えられるのは冷酷な死のみ。たとえ命令に従った先にある物も死だとしても、この場合は上手く立ち回りさえすれば生き延びることも出来る。お前たちは、自分だけは上手くやれると信じていた。少なくとも、これまでは大丈夫だった。ゆえに、愚かにも自身の生存能力を過信していた。
過信は慢心を生み、慢心は油断を生む。
そして油断は死を招く。
己に油断する暇を与えるな。
生きたければ戦え。撃て。そして進め。
WHO DARES WINS. ――勝利は危険を冒し戦い抜いた者の手にこそ相応しい。
* * * * *
お前たちは今、生者を貪り喰らう死者の群れから逃れ、ある商業ビルの一室に立てこもっていた。十を越えるモニターが壁に埋め込まれるように設置され、そのモニターにはビルのいたるところが映し出されている。なかなかに鮮明なモノクロの映像は、もちろん随所に設置された監視カメラのものに違いない。机上のキーを押せば、任意のカメラの映像に切替る事も可能。そう、ここは警備室だ。
人が大きく動く気配と金属が軋む音が狭い部屋に響いた。
「ルース」
キャンベルが呼ぶ。誰を? 決まっているだろう、お前以外に誰を呼ぶというのだ。ルース・グレイ。それがお前の名前だ。忘れていたなんて馬鹿な事を言うんじゃないぞ。
この都市に蔓延する異常さに順応しよう、なんとか折り合いをつけようと、お前は手帳にこれまでの出来事を記録していているところだった。書く手を休めず、お前は唸るように返事を返す。
「何してんだよ」
目も上げずにお前は答えた。
「書いて頭を整理してる」
ハッ。
吐き捨てるようにキャンベルが笑う。「どうせならもっと実のある事やれよな」
スチール製の回転イスを軋ませながらキャンベルはモニターに向き直り、それまでと同様にキーを叩き始めた。キャンベルは常に今と前だけを見ていて、決して過去を振り返ろうとしない。この男の数少ない美点(あるいは数多の欠点)のひとつだが、いつかそのせいで重大な失敗を犯すのではないか。その代償を支払うのがキャンベル一人ならば何も文句はないが、パートナーとして一緒に行動する機会の多い自分までそのとばっちりを受けるのではないかという不安がお前にはあった。
しかし、心配しても始まらない。なんと言ってもこの地獄から抜け出すために頼れるのは、自分の他にはキャンベルだけなのだから。
とりとめもなく流れる考えはこの都市の様子へと移る。
この都市がこんな風になってしまったのは、あるウィルスが原因だという。人間のみならず動物や昆虫、果ては植物にまで影響を及ぼし、想像を遙かに超えた変異を生態系にもたらしているのを見ると、随分と強力で凶悪なウィルスのようだ。環境汚染はかなり酷い。酷いという表現が生ぬるく感じるほどに。
左の二の腕を掴んだ。出動前にウィルス抗体を打たれた場所がむず痒い。これさえ打っておけば感染はしないと言われたが、はたして本当だろうか。医者と思しき彼らの言葉を鵜呑みするには、お前はあまりにも多くの裏切りを経験し過ぎていた。
既に始まって数時間しか経たない今日だけでも、彼らから無数の裏切りを受けたと感じている。
中でも最も重大なものがゾンビと称された人間の数。出動前に受けていたブリーフィングでは、都市全体で数百人に満たないとされていた。しかし現実はどうだ。通りを埋め尽くさんばかりのあの群れが僅か数百体で構成されているだと。見え透いた嘘はよしてくれ。馬鹿馬鹿しすぎて笑う気にもならない。どう見てもあれは軽く千を越えている。あるいは、万か。
わずか一週間にも満たない日数でここまで状況が悪化したのだとすれば、お前を含めた生者を取り巻くこの事態は恐ろしく悪く、絶望的だ。この都市が活動を停止して久しい。以前と変わらず動き続けている物が僅かながらあるが、それは人間の手を必要としない物ばかりで、脊髄反射運動と大差ない。この街に対しお前が抱いた感想は正しい。
そう、この街はとうに死んでいる。
お前はこれまでどんな戦場に送り込まれても必ず生きて帰った。もちろん今回も生きて帰るつもりでいる。
しかしこの街の惨状を見るにつけ、浮かんできた思いは強くなる一方だ。仲間の末路を脳裏から振り払う事が出来ない。今度ばかりはダメかもしれない。あの腐乱の始まった無数の腕に捕まるのが己の辿る道なのだろうか。
“死”そのものを恐れてはいないが、その最期はあんまりだと思う。
どうしても考えずにはいられなかった。死んだ八人とまだ生きている自分たち二人の生死を分けたものとは、一体なんだったのだろうと。やはり多くの場合と同じように、油断、だったのだろうか。
問えば、油断などしていなかったと、あの八人は答えるだろう。そう、確かに彼らは油断などしていなかった。しかし恐怖は感じていた。この状況ではその方が自然であるゆえにそれを恥じる必要はなく、むしろ感じていた方が良い。少しの恐怖は神経をより鋭敏にするからだ。とはいえ、度を過ぎた恐怖心は害にしかならず、お前たちを死に至らしめる毒となろう。お前がこの答えに至ることはないが、我々には分かっている。
及び腰になったその瞬間に、死が確定する。
彼らが死んだのは怯え過ぎたせいだった。
* * * * *
「ルース、おい、ルース!」
再びキャンベルが嬉々とした声で叫ぶようにお前を呼んだ。たいして広くもない部屋なのだから、そんなに大声を出さなくても十分声は届いているというのに。
「こいつを見ろ。エサがある」
エサ? その言葉を聞いてお前はようやく書く手を止めた。キャンベルはモニターのひとつを指さした。お前がいる場所からはそれが見辛く、仕方なしに立ち上がりそれを見る。モニターの中で人間が三人、身を寄せ合って震えていた。男が二人に女が一人。いずれもまだ若く、年齢は二十歳以下、とお前は見積もった。
「同じフロアで、ここからそんなに遠くない所にいるんだ」
値踏むような目でモニターの中の男女を見つめるお前を見てキャンベルは言った。別のモニターに今いるフロアの見取り図を表示させ、位置を示す。相棒の言う通り、そこまでの距離はいくらもなさそうだ。
「ゾンビ共の注意をこいつ等に向けさせて距離を稼ごう。回収ポイントは時計塔だったよな?」とキャンベル。お前は頷く。「でも三人っぽっちじゃ、そこまで保つかどうか」
「そしたらまた調達すればいい。通り道のどこかにまだ居るだろ。こんな風に隠れてさ」
そう言ってキャンベルは笑った。それは一見無邪気にも見えるが、実際はとても禍々しく残酷なものだった。そして醜い。しかしお前には分かっていた。その意見に心から同意した自分も全く同じ表情を浮かべていると。
自分さえ助かればそれでいい。他に犠牲を強いることで痛むような良心は生憎と持ち合わせていない。そんなものはとうの昔に捨ててしまった。
お前もキャンベルも随分と昔にこの世界と人生に絶望し、生きる意味も価値も見失って久しいが、未だに死を恐れ生を願う。生きて何をするでもないのに。ただ生き続けることだけがお前たちの目的だった。
To be Continued...
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