02 : Radio Contact
2003.11.12.
レベッカは手にした銃を構える事も、周囲を警戒する事も忘れ無造作にヘリに近づく。
酷い有様だ。
数ヤード離れた場所からでも、ヘリが昨夜何か――恐らくエドワードが死んだ直後に列車に飛び込んできたような犬だろう――に襲われた痕跡が見える。キャノピー(風防)が泥や血液にも見える得体の知れない何かで汚れ、外からはコックピット内部が窺い知れない。
胴体部のスライドドアがだらしなく半分ほど開いていた。何故? 昨夜確かに閉めたはずなのに。
鎮座する機体に近づくにつれ、生臭い腐敗臭が強くなる。気分が悪くなってきた。手を伸ばせばそれに触れられそうな位置まで来ると、彼女は唾液を飲み込み声を投げた。
「ねぇ、誰か居る?」
返答は期待していなかった。わざわざ声を出したのは、萎えそうになる気力を奮い立たせるためだった。この周囲に誰もいないのは分かっている。チームメイトの誰かがいれば、とっくに姿を見せてくれていただろう。ヘリの内部には動くものの気配がなかった。
念のため銃を先に内部に差し入れてから、スライドドアに手を掛けて開ける。一層濃い腐臭の固まりが機内から溢れ出した。その臭いのあまりの強さに彼女は顔を歪め後退る。臭いの薄い所で呼吸し息を止めると、今度は勢いよく中に飛び込んだ。
機内のいたるところに黒く変色した液体がべったりと付いている。これがなんなのかは、考えない方がいいのかもしれない。たとえその正体が分かっているとしても、だ。天井は低く、直立して進めない。頭をぶつけないように腰と背を丸めた窮屈な姿勢でコックピットに近づいた。
通信機を内蔵したパイロット用のヘルメットが座席の間から覗いている。
ストラップが弛んでいるのか、そのヘルメットは半分脱げかけていた。ストラップが顎に引っかかっている御陰で辛うじて頭に乗っているものの、その重みのせいなのか非常に不自然な角度で頭が後――つまりレベッカの方――に傾いている。顔の半分を覆っていた濃い色のバイザーは砕けてそこからなくなっていた。
彼女は一点を見つめたまま身動きも取れずに、今更ながら中に入ったことを後悔した。コックピットまで、僅か5フィート。それ以上は近づけなかった。
頭を仰け反らせたパイロットのケビンが、よどんだ瞳でレベッカを凝視している。
* * * * *
呼吸を止めていてさえ嗅覚を刺激する強烈な腐敗臭と、新たな酸素を求めて喘ぐ肺の苦しさに負けた彼女はその場の空気を吸い込み、そして咳き込んだ。
“幸運を”。
肩越しに振り返り、そんな意味を込めた敬礼で昨夜レベッカを送り出してくれた彼の姿が脳裏をよぎる。皮肉なものだ。本当に幸運が必要だったのは、ケビンの方だったのに。そう思ったら涙が滲んできた。
……何時間も前の話だ。まだ辺りが闇に閉ざされていた頃、彼女は一連の施設の一角でブラヴォーチーム隊長のエンリコ・マリーニと偶然にも再会していた。彼はその時、森の中にある屋敷に向かうと言っていた。
恐らく彼が最初にその指示を出した時点で、この場所とヘリは放棄されていたに違いない。そうでなければパイロットを独り残して全員が移動するよう指示するなど、考えられない。つまりケビンはその時既に死んでいたことになる。
昨夜独りこの場に残った彼の身に一体何が起きたのか。およその見当は付く。それにこの場所から確信をもって読みとれることがひとつある。
彼はヘリを守り、そして死んだ。最期まで持ち場を離れず、多分救助が来るのを、送りだした仲間が戻るのを信じて待っていたはずだ。なのに彼女は間に合わなかった。
間に合わなかった。その思いが苦く残り、さらには強烈な腐臭と相まって胃壁を震わせ、喉元にまで込み上げてくる。
……何もかもが、耐えられる限界を超えていた。
彼の視線から逃げるように機外へと飛び出した。5・6ヤード離れたところで彼女は立ち止まる。手近な木に手をつくと前屈みに身体を折り、吐いた。その拍子に、胸元から細い鎖に通した薄い楕円形のプレートが滑り落ちる。
ドッグ・タグ(認識票)。
自分のものではない、“死んだ”男が身に付けていたタグ。
目を閉じ、すがるように両手でそのタグを握りしめた。気を静めようと何度も深呼吸を繰り返す。やがて落ち着いてくると自分が何をしていたのかに気づき、笑った。
――こんなにも“彼”に依存してたなんて。
ずっと独りで大丈夫だと、自分が優位に立っていると思っていた。それが単なる思いこみに過ぎなかった事に、たった今、気付いた。たとえ“犯罪者”の烙印を捺されていようとも、彼は訓練された軍人だった。しかも少尉だったのだから、少なからず人を率いる立場にいたはずだ。だが彼はその能力や経験を誇示することなく、レベッカの指示に従い続けた。無論、明らかに不味い指示には、やんわりと訂正や反論をしていたが。
彼にとってレベッカなど虚勢を張る子供にしか見えなかったに違いない。レベッカ自身は彼をお荷物扱いし、監視しているつもりだった。なのにそれが全くの間違いで、実際は彼がレベッカを守ってくれていたのだとは。今の今まで、気付かなかった。
だがその彼も、もういない。
分かってはいても、振り向けばそこに彼が居るような気がして仕方がない。
――精神的な支えにするくらいなら、いいよね?
陽光を鋭く反射させる傷だらけのタグとそこに刻まれた文字をしばし眺めた。やがて意を決すると彼女は再び動き始める。今度こそ、仲間との合流を果たすのだ。
* * * * *
同じ頃。館の玄関ホールでは、レベッカの“教育係”であるリチャード・エイケンが中央の大階段に座り、手の中の無線機を見つめていた。
束の間の休息を手にする度に、彼は無線機を通して何度も――それこそ一晩中――呼びかけ続けた。あまりにも繰り返し過ぎて、それらは意味のある言葉からただの単語に、さらに意味を成さない音の羅列へと変化しかかっていた。
「――レベッカ、ヘイ、聞こえてたら返事をしてくれ。レベッカ!」
一体何度同じ言葉を言ったのだろう。昨夜から数えて、これが何度目の呼びかけなのか彼にはもう分からなかった。
昨夜が初出動だったレベッカ。何故彼女を独りで探索させてしまったのか。傍に付いていてやらなかったのか。彼女がいないと気付いた時からずっと彼は自分を責め、自己嫌悪に苛まれていた。一度ならず夜の森に彼女を探しに出ようとした。しかしそのたびに仲間に押し止められ、説得された。
彼女の事はもう、諦めるべきなのだろうか?
リチャードは頭を振った。そんなこと、出来る訳がない。どんな結末を迎えるにしろ、そんなことをしたら一生自分を許せそうもなかった。
今までずっと沈黙を保ってきた無線機が、突然その本来の役目を果たそうと動き出す。
『ハロー? こちらチェンバース』
耳をつんざく空電雑音に混じり、無線特有のひずんだ音声が流れ出した。
リチャードが一晩中安否を気遣い無線を通して呼びかけ続けた、当の本人がついに応答してきた。このたった一言が、どれだけの安堵と救いをもたらしたのか。無線の向こうに居る彼女は知る由もない。
僅か一晩離れていただけなのに、なんと懐かしく感じるのだろう。しかし感慨に浸っている場合ではなかった。我に返るとすぐに無線機を取り直し、話しかけた。
「良かった、無事なんだな? 今どこに居る」
『ヘリの墜落地点に』
リチャードは顔をしかめた。今頃墜落地点にいるなんて、あいつは一体一晩どこにいたんだ?
「……OK、そこから北にまっすぐ600ヤード進め。大きな屋敷があるんだ。オレたちはそこにいる」
『了解。そちらに向かいます』
すぐにも通信を打ち切り、走り出しそうなレベッカを呼び止める。ためらいがちにリチャードは言った。
「レベッカ、分かってると思うけど、森の中はバケモノで溢れてる。……気を付けろ」
『大丈夫、心配無用です』
心配をよそに、返ってきたのは随分と自信に溢れた声音だった。こんな声は聞いたことがない。彼が知っているレベッカとはまるで別人のようで……。昨夜彼女に一体何があったのだろう。彼女をこれほど変えてしまう、どんな出来事があったのだろうか。
通信を終えると、リチャードは立ち上がり憔悴した顔の仲間二人、ケネスとフォレストにうなずきかけた。二人ともリチャードにうなずき返すと、立ち上がり各々愛用する銃器の弾倉をチェックした。この森は――少なくとも彼らが知っている森の状態は――独りで抜けるには、あまりにも危険すぎる。
「援護、頼むよ」
壮麗で重厚な玄関ドアのノブに手をかけると、リチャードは振り向いて言った。疲労と緊張、そして新たな不安で彼の顔はひどく青ざめていた。
フォレストは安心させるように茶目っ気たっぷりに笑い、彼の肩を叩く。
「任せとけって。さぁ、迷子の仔猫を迎えに行こうぜ」