02 : The End of Days
2003.03.23.
どこかで無条件に信じていた。
この日常は、ずっと続くと。
事の始まりは、1996年の夏にまでさかのぼる。
当時俺の居た部隊は、祖国から遠く何千マイルと離れた、異国の地に駐留していた。
荒れ地で訓練に次ぐ訓練に明け暮れた、それまでと何一つ変わらない日常。何かが起こるというような予感も、予兆も、何もなかったのに。
7月初旬のある晩、仲間とクラブでビールを飲み始めた時だった。俺は呼び出しを受け、中隊長の元に出頭した。
中隊長のハリー・ライマン大尉は34歳で5フィート9インチ(約175cm)、中肉中背の男だ。容赦なく厳しい人だったが、それは決して横暴だった訳ではなく。むしろ公平過ぎてそうなっていたというのが、正解だろう。
大尉は手にした書類から視線を上げると、俺にイスを勧めてくれた。一瞬迷ってから、丁寧に断った。
心の奥底にしまい込んだ疚しさを見透かし、暴く様な彼の視線は、いつ浴びても愉快なものではない。ただ、今夜の彼はとても優しいというか、痛みを持った気遣わしげな瞳の色をしていた。
「最近家族に連絡は取ったか?」
「イェス・サー。三日程前に電話で」
何……なんなんだ? どうして大尉はこんな事を訊くんだ?
呼び出されるなんて、どうせ何かロクでもないこと――例えば昨夜の乱闘騒ぎや、度の過ぎた悪戯なんかだ――に関係したことだと思っていただけに。予期せぬ言葉に頭が混乱する。
「君宛に電報が届いている。……これは多分私から渡すのが一番良いと思ってね」
なんの飾り気もない、真っ白な封筒。大尉は立ち上がり、それをデスク越しに差し出してきた。……受け取るのが怖い。手に取りたくないが、取らねばなるまい。
手をのばして封筒を受け取った後に続いた大尉の言葉は、俺を暗く深い穴に突き落とした。
「昨夜、御家族が亡くなったそうだ」
…………心臓の音が、耳の奥で大きく響いた。
* * * * *
中隊長のオフィスを出ると俺はまっすぐ宿舎に向かった。クラブで騒ぐ仲間の元に戻る気にはとてもなれない。
タチの悪い冗談ならば良いと思った。
俺の兄弟が――それも全員――死んだなんて信じられないし、信じたくない。
最初に受けたショックから抜け出すと、ナイフで電報の封を切った。隣の郡に住んでいる叔父夫婦からだ。内容はさっき中隊長が教えてくれた以上のことは何もない。紙面中央部にタイプ打ちされた簡素で事務的な短い言葉は、彼等の死を一層非現実的なものにしていた。
ぐしゃりと丸めて、クズ籠に投げ込んだ。
こんなの、信じられるか。立ち上がり、宿舎を出ると電話の並ぶ一角を目指した。
10台程の電話が並ぶその区画には、まばらに人が居た。どれも知った顔だった。俺は空いていた端の一台に近づき、三日前と同じ番号をダイアルする。交換局を通り、あの家の電話を鳴らすまで数秒。そしてけたたましくなる電話の受話器を誰かが取り上げるまでの十数秒。まるで永遠に続くかと思った。
『ハロー?』
電話口に出たのは、女だった。
知っている声だ。普段ならば耳に心地よいはずの柔らかなアルト。今は僅かに鼻の詰まった声になっているが、間違えようがない。これはメルロー叔母さん。この電話を取るはずのない人。では、あの話は。――本当に、本当なのか。
『ハロー?』
訝しむような声に変わる。
『…………マーフィーなの?』
あぁ、マーフィーだよ、叔母さん。
しかしその問いかけに答えぬまま、俺は受話器をそっとフックに戻した。結局一言もしゃべらなかった。
おぼつかない足取りでそこから離れ、人気のない所まで移動する。周囲を見渡しとりあえず誰も近くに居ないのを確かめると、糸の切れたマリオネットの様にその場に崩れた。それからしばらく、声を殺して泣いた。
* * * * *
大尉は休暇を取ったらどうかと勧めてくれたが、きっぱりと断った。交代の部隊が来て俺たちが帰国するまで、あと三週間足らずだ。独り先に帰る気はない。俺は海兵隊の兄弟たちと共に帰るのだ。
帰国までの間、俺は必要以上の熱心さで訓練と任務に打ち込んだ。そうすることでなるべく兄弟の死を考えない様にしていた。他に、自分を支えるすべを知らなかったから。
一度、メルロー叔母さん――父の実妹で、電報をくれた人だ――から手紙が来た。いかにも親戚らしい気遣い、いつ戻って来られるのかといった当たり障りのない質問と、俺抜きで葬儀を行ったことを彼女は手紙で詫びていた。
ペンを持つのも億劫だったが、それでも短い手紙を書いて送り返した。
『 俺は大丈夫。ありがとう、叔母さん。葬儀の事は気にしないで。感謝しています。
帰るときには連絡します。』
その時は、本当に大丈夫だと思っていたのだ。今となっては、何を根拠にそう思っていたのか分からないけど。少なくとも表面上はそう見えるよう努力していたのは確かだ。
祖国へ、基地へ戻り、俺が休暇を取って家に帰ったのは、あの知らせを受けた日から数えて丁度50日後だった。季節は急速に秋へと変わろうとしていた。
手紙で約束した通り、基地を出るとき俺は叔母さんに電話を入れた。こちらに寄ってくれるかと問われたから、俺は短くノーと答えた。
車や電車を乗り継いで故郷へ、家へ着いたのは、基地を出てから数時間後。午後も遅い時間だった。
幹線道路から脇道に入り半マイル(約800メートル)程進めば、生まれ育った家がある。未舗装の砂利道を走った。まるで幼い子供が母親の元へと一心不乱に駆けていくようだ。誰かが走る俺を見ていたならば、多分そう表現しただろう。
そのままの勢いで玄関に駆け上がり、思い切りドアノブを捻った。半インチも回らずに止まり、金属がかみあって軋む嫌な音がする。鍵が掛かっている。舌打ちするとガレージへ入り、隠してあった鍵を取ってきた。それを差し込み、捻る。
鍵の外れる手応えと音があった。
ドアを開けて、屋内へ踏み込む。
相変わらずの懐かしい我が家のにおいがしている。
何も変わっていないのに、ぬくもりだけが消えた家。
「……ただいま」
呟いた声は、肺から空気が漏れるようなかすれた音だった。響かずにそのまま空虚な空間に吸い込まれて、消えた。
知ってしまった。
俺の帰る場所は、永遠に失われたのだ。
その事実を受け入れざるを得なかった。
太陽の残滓が空を紅く染め、窓から差し込むその光が室内も同じ色に染めていた。玄関のドアにもたれかかってそのままずるずるとへたり込む。
あぁ……。
――明日も良く晴れそうだな――。
* * * * *
翌日、例の叔母夫婦がやって来た。
外地に居た俺に代わって葬儀の手配や法的なことを、全てやってくれた人たち。あまり心配させてもいけないと思ったから、彼等の前では問題なく見えるよう振る舞った。そう、それは9割方成功したよ。多分あまりにも平静に振る舞い過ぎたんだろう。帰り際に彼等が見せた表情には今まで通りの愛情があったが、僅かに得体の知れないモノを見るような恐怖心が混じっていた。
とにかく彼等は俺の知りたかったことを教えてくれた。詳しい事は分からない、と前置きをした上で。三人が何処でどのように死んだのか。話してくれた。だけどもう、それがなんだったのか思い出せない。忘れちまったよ。……悪いな。
でも、これだけは言える。
ありふれた、アメリカの悲劇。毎日何処かで同じ事が起きて、翌日には忘れられてしまうようなたぐいの。くだらない出来事が彼等の死因だ。
マズいときに、マズい場所にいた。全てはタイミングと運の問題なのかもしれない。
日暮れが近づくと俺は独り、兄弟に会うため町はずれにある墓地へ向かった。真新しい墓が三つ並び、それぞれに花束が手向けられている。しかしそれらはもうすっかり萎びて色あせてしまっていた。
手ぶらで来てしまった俺は、ガキの様に両手をジーンズのポケットに引っかけ、しばらく三つの墓石を眺めていた。
…………なぁ、兄弟。
俺は本当に、守りたかったんだ。
守りたかったのに。
その為の力が欲しくて軍に入ったのに。
このザマだ。
結局なにひとつ、守れなかったな……。