たとえば そんな夜 −初夏−

03:Carlos & Jill (in evening)

2001.09.09.

 受話器を取り上げ、指が覚えた番号を順に押していく。半分以上を押してからその先を押すのをためらい、受話器を下ろす。どうしても最後までダイアル出来ない。彼はさっきから何度も同じ事を繰り返していた。
 もう勤務時間は終っているはずだから、多分電話に出てくれるだろう。だが多忙な彼女のことだから、こんな時間にもう仕事が片付いていると言うより、まだ仕事中、最悪旧市街地に出動している可能性だってある。仕事の邪魔はしたくない。
 ――くそっ。
 乱暴に受話器を置くと、ソファーに身体を投げ出す。たかが電話一本じゃないか? 何をそんなにためらうんだ。鬱々とそんなことを考え続け、満足に電話一本かけられない自分の不甲斐なさを呪う。きっと簡単なことなんだろう。彼女が出たら、やぁ俺だけど今大丈夫かな、なんて向こうの都合を確かめればいいことなのだ。
「あーあ、なっさけねぇなぁ」
 大きなクッションをひとつ抱え込み、ソファーの上で転がる。仕事なんて放り出して、俺の為に帰ってきてくれよ。あんたの喜ぶ顔が早く見たいんだ……。彼はほとんどいじけた様に、丸くなる。その様子は本当に子供じみていて、とても彼がプロのボディーガードとは思えない。
 それからほんの少しの間を置いて、玄関の鍵を開ける音がした。まさかこんなに早く帰ってくるはずがないとは思ったが、あの扉を楽に開けられるのは自分と彼女だけだ。自分はここに居るのだから、やはり……。
 ぱたんとドアが閉まる音に、施錠音が続く。間違いない。彼はばっと起きあがり玄関に向かう。
 リビングの入口で、丁度その人と鉢合わせする。果たしてその人は、予想通り彼女であった。彼女を彼女だと認めた瞬間、彼の顔には満面の笑顔が広がる。とても、わかりやすい。
「お帰り、ジル!」
 ジルは何度か瞬きをして、じっくりと彼を見直す。……今一瞬ちぎれんばかりに振られる犬の尻尾が見えた気がするんだけど……気のせいよね。勿論彼にそんなモノがついている筈がない。彼は正真正銘の人間なのだから。
「ただいま。あなた本当に早かったのね。まだ帰ってないと思ってたのに」
 声が予想外の喜びで弾み過ぎないよう、ジルは意識して声を抑制する。素直に喜んでいっそ彼の腕に飛び込んでしまえばいいのに。可愛くない女ね、私って。胸の内でそっと溜息をつく。
「ま、予想以上にね」
 ほんの少し肩を竦めて彼は言う。とてもではないが、実は朝からここに居たなんて言えない。何も悪いことをした訳ではないが、何となく引け目を感じてしまう。だからつい、自分の部屋に向かう彼女の背中にこう言ってしまう。
「ジルも今日は早いんだな」
「予想以上にね」
 肩越しに振り返り、彼のセリフをそのまま真似て返す。なんだか悔しい。彼はジルの部屋の入口までついて行き、彼女には背を向けて、入口にもたれかかった。室内からは衣擦れの音が聞こえてくる。着替えている様子を眺めたいと思ったけれど、後が恐いのでやめた。しばらくそのまま彼は言葉を捜し、やがて普通に聞くのが一番だと思い率直にきりだす。
「なぁジル、これから何か予定あるの?」
 どう答えようか彼女は一瞬考える。素直に答えるのも癪だが、嘘をついても意味がない。だからわざと曖昧に答えてみた。
「そうねぇ……なくもないわ」
「なんだよそれ。どっち」
 子供のように口を尖らせているに違いない。着替えおわった彼女は笑いを噛み殺して、彼をリビングまで追い立てる。予想通りの反応を返してくれるので、とても面白い。
「あなた次第ってこと」
「それって、今夜は俺に時間をくれるってこと?」
「そうね。そういうことかな」
 その言葉を聞いて、カルロスはぐっとこぶしを握って小さくガッツポーズをする。勿論彼女からは見えない所で。それに気付かない彼女はそのままキッチンへ向かい、手際良くコーヒーを煎れはじめる。
「じゃあ、食事に誘いたいんだけど」
「いいわよ。何が食べたい?」
 出来たらいいな、と思っていたことが何も言わずともトントン拍子に実現していく。こんなこともたまにはあるのね、と思いながら彼の計画など何も知らない彼女は、いつものようにどの店に行こうか考えはじめる。なぜなら、いつも誘うのは彼でも、店を選ぶのは彼女の役目だからだ。
「イタリアンって気分じゃない?」
 ソファーに座りおもねる様な口調で彼は提案する。彼女はその言い方になぜか切羽詰まった感じを受けたが、理由が分からないので気のせいだろうという事で片づけた。
「悪くない選択ね」
 イタリアンが美味しい店を思いつく順に心の中で挙げていく。それが3つめまで挙がった所で、カルロスは意外なことを言った。
「良かった。実はもう予約しちゃってるからさ、ジルが違うのが良いって言ったらどうしようかと思ってたんだ」
 密かな懸念が晴れて、彼の表情と声はすっきりしたものになっている。そしてソファーに寝そべってぐーっと身体を伸ばす様子を、彼女はまじまじと眺めた。意外。意外すぎるわ。彼が自分で店を決めるなんて。おかしなものを食べたのでなければ良いのだけど。
 勿論それが悪いという訳ではなく、むしろ嬉しいことなのだが今まで一度もなかったことなので、どう対応していいものか悩んでしまう。
「な、なに? どっか行きたい店でもあった? ごめん、勝手に決めちゃってて……」
 彼は微妙に脅えている。伸びをした後で彼女の様子をうかがったら、とても厳しい眼差しで自分を見ていたからだ。眉間にしわまで入っていて、これは睨んでいると言うのが正解かもしれない。美人なだけに、とても恐い。勝手な事をしたのが気に入らなかったのだろうかと不安になる。といっても当のジルには「睨んでいる」という意識は全くなく、ただ対応に困っていただけなのだが。彼に言われて初めて、自分がどんな表情をしていたのか気付いたくらいだ。
「違う、そうじゃなくて、こういうの初めてだったから、ちょっと意外だなって思っただけなの」
 慌ててジルは弁解する。自分の態度や表情が彼にどれほどの影響を及ぼすのか、ちゃんと理解しているつもりだ。だから変な誤解はその場で解いておきたい。そう言うと彼は明らかにほっとした表情になった。
「でも本当に行きたい店があるなら言ってな?」
「ええ、大丈夫。こんな事二度とないかも知れないから、あなたが決めた所がいいわ」
 ――あなたと一緒なら、どこでもいいの。
 にっこりと笑って見せる。それから心の中で言い足した。
 カルロスは笑いながら、それって酷くない?と言い返し、彼女の隣から漂ってくるコーヒーの香りを胸一杯に吸い込む。休日の、穏やかな朝を思わせる香り。勿論今は朝どころか夕方なのだけれど、毎日こんな風だったらいいのになぁ、とカップにコーヒーを注ぐ彼女の姿を眺めながら考えた。
「ジル、俺にも! それから着替えて出よう」


     * * * * *


 フォーマル過ぎず、カジュアル過ぎずと言う服装は、実際のところ随分難しい注文である。あれやこれやと試してみたが、結局カルロスはジャケットを羽織ってタイは絞めず、ジルはシックなワンピーススーツというところで落ち着いた。それからカルロスの不器用なエスコートを受け(その様子に、ジルは笑いを堪えるのに必死だった)、この為に借りてきた赤いロードスターで出かける。少しやり過ぎじゃないのかなとも思ったけれど、全て自分の為にやってくれている事だと解っていたので、彼女は何も言わず受け入れた。少し気恥ずかしかったのも事実だが、嬉しいと思ったのも事実。たまにはこんな風に気取るのも悪くない。
 アパートから車で15分程の所に、目的のレストランがある。一方を公園に、もう一方がその前の大通りに面しており、昼はオープンカフェとして営業しているようだ。こぢんまりとしているがとても洒落ている。店内はまだ空席が多い。比較的20代のカップルが多い様だが、客層と雰囲気は悪くない。
 店内に入るとすぐにウェイターがやって来て、彼が予約をしてあると告げると丁重に店内中程、窓際のテーブルまで案内された。テーブルの配置は余裕を持ってあり、周囲の会話も気にならない。彼女はこっそり採点をする。自分の好みに良く合っている。こんな店があったなんて、どうして今まで知らなかったのだろう? ここが毎日変わっていく都市だという事は分かっているけれど、不思議でならない。とにかく、合格点をあげよう。

 内心彼は冷や冷やしていた。あからさまに「気に入らない」という顔はしていないから大丈夫だろうとは思ったが、油断は出来ない。彼女はそういった感情を表に出すタイプではないのだ。知り合ってから、さらには一緒に生活するようになってからもう随分経つが、彼女については未だに掴み切れない部分が多い。まぁ、基本的な嗜好などは分かってきているけれど、それが不十分であることに変わりないのだ。今回も、自分の知りうる限りの彼女の好みに合うように選んだつもりだが、彼女はどう感じているのだろう? 食事は佳境に入り残すはデザートのみだ。……本当に、どうなんだ?


「少し歩かない?」
 店を出て、車に向かう途中で不意に彼女は提案する。ちらりと腕時計に視線を走らせて、彼は頷いた。まだ9時前だからそれほど危なくはないだろう。但し、自分たちは大抵の危険は降りかかる前に払い落とせてしまうという事実はこの際無視しておく。
 ゆったりとした歩調で噴水の方に向かう彼女の後をついていく。彼女の能力を十分すぎるほど良く知っている今でさえ、不思議に思うときがある。どう見たって普通の女なのに、どうしてあの街から生き延びる事が出来たのだろう、あの身体のどこに、そんな能力(チカラ)が潜んでいたのだろうと。
「今日は、ありがとう」
「え、何?」
「食事に誘ってくれてありがとうって言ったの」
 くるりと踊るように振り返って言い直す。その表情は明るい。彼はそれでようやく彼女があの店を気に入ってくれたことを知った。良かった。ただ、こんなところでそんなことを言われるとは思ってもいなかったので、多少面食らってしまう。
「俺こそ……来てくれてありがとう」
「いいお店ね、あそこ。また連れてきてくれると嬉しいかな」
 はにかんだような笑みを浮かべて、ねだってみる。滅多にこんな事をしないから、変に照れてしまう。なんだか頬が熱い気がするけれど、それはきっとさっき呑んだワインの所為。そういうことにしておこう。
「勿論だよ。また、来ような」
 彼女の心の内を知ってか知らずか、無邪気に笑って彼は応える。きっと気付いて無いのだろうけれど、時としてその鈍感さがとても歯痒い。まったく、もう。
 ライトアップされている噴水を眺める。飛沫に反射する光が、とても幻想的で美しい。そしてその光を受ける彼女も。綺麗だなと思って。そんな彼女の隣に居られる俺は、なんて幸せ者なんだろう。
 不意にひやりとした風が抜けていく。初夏、といってもまだ夜は冷える。
 ノースリーブの彼女は少し寒いなと思って、無意識に自分の腕を抱いた。それに気付いたカルロスはジャケットを脱ぎ、彼女にそっと羽織らせてやる。それから抱きしめて、くちづけを。完全な不意打ちだったけれど、彼女もそれを甘んじて受ける。

「――うちに帰ろう?」



To be Concluded...
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