04 : Carlos & Jill (Midnight)
2001.09.09.
夜半過ぎ、不意にジルは目を覚ました。最初は目を覚ましたことも気付かない様な半覚醒状態だったが、窓から差し込む薄い光で浮き上がる室内の様子を、やがてはっきりと意識する。いつもなら、電話でも鳴らない限り朝まで目覚める事はない。今日に限って、何故……。ぼんやりした視線を室内に巡らせて、何も異常がないことを確かめる。枕元の時計は針を薄く発光させながら、今が一時半である事を知らせていた。ベッドに入ってからまだ一時間位しか経っていない。彼女はもう一度眠ろうと瞼を閉じた。
そして、不意に気付いてしまった。目を覚ました原因が何だったのか。
あの音のせい。外でさらさらと窓を叩く音。
雨だ。夜の、雨。理解しがたい恐怖が、雨と共に忍び寄る。
暑苦しいのも構わず、彼女はブランケットを頭から被り、両手で耳を塞いで音を閉め出そうとする。しかし一度敏感になってしまったこの耳は、なおもはっきりと雨音を捕らえ続ける。雨音に集中する神経を逸らそうと必死に別のことを考えた。例えば同僚のこと、仕事、明日の会議、今度の休暇、それから・・・彼のこと。ほんのつかの間だけ音は遠ざかってくれたけれど、結局そう感じた途端にまた音は彼女を苛みはじめる。
――もう、だめ……。
今度こそ乗り越えられると思った。だが、今度も駄目。これ以上は耐えられそうもない。けだるい身体を起こし、立ち上がる。ブランケットを引きずりながら、ジルは音を立てないようにリビングを横切り彼の寝室の入口で中の様子をうかがう。
聞こえてくるのは、規則正しい寝息だけ。
意を決して彼女はゆっくりとそして静かに、彼のベッドサイドに歩み寄る。そこにあるのはこの上もなく安心しきって無防備な寝顔。なにかいい夢でも見ているようで、微かにほころんだ口元が、全体的に幼い子供の様な印象を与えている。
布団の上に両手が投げ出されている。その手に触れたいと思ったが、触れたら起こしてしまうかもしれない。彼はそういったことにとても敏感だ。一緒に生活を始めた頃は、急に室温が変わったり、様子を見にベッドサイドに近寄ったりしただけでも目を覚ましていた。その時から比べれば、随分警戒心が解けるか、カドが取れるかしたのだろう。
ブランケットを羽織って、ジルは零れでた手の傍に腰を下ろす。戦いの中に生きてきた男のちょっと無骨だけれども、大きくてやさしい手。どうか起きませんようにと願いながら、両手でそっとその手を取りあげると、目を閉じ右の頬をすりよせた。
どうしてか分からない。でも、こうしているととても安心する。守られていると、感じてしまう。もう、雨音も彼女を脅かすことは出来ない。
「……ジル……?」
頭の方から、掠れた声がした。やはり起こしてしまったようだ。起こすつもりはなかったけれども、心のどこかで起きてくれることを望んでいたのも事実。だがいざ彼が目を覚ましてしまうと、いつも罪悪感でいたたまれなくなる。
「ごめんなさい、起こしちゃったわね」
手を放し、ジルは微笑んでみせる。しかし罪悪感と再び忍び寄ってくる雨音の恐怖が、その微笑みに翳を落とす。いくら起き抜けとはいえそれに気付かないほど、カルロスも鈍くはない。それでも、気付かない振りをするのは彼なりの優しさ。
「いいよ。それよりどうした」
「ちょっと、目が覚めちゃっただけ。なんでもないの」
自分の寝室に戻ろうと、彼女は膝立ちになった。ほんのわずか顔をしかめてカルロスは考える。それだけの事で、わざわざ俺の部屋に来るはずはない。何か理由があるはずなのだ……。
そこで初めて彼も気が付く。ひっそりと窓を叩く雨音と、どこか遠くから響いてくる神鳴りに。それが彼女が目を覚ましてしまった原因であることに。一緒に生活を始めてから今までにも何度か同じ事があった。その、最初の時に教えてくれた傷痕。
――夜の雨が恐いの……。あの時を、思い出すから――
今でもはっきり覚えている。普段の気丈な姿からは想像もつかないほど、脆く感じたことを。腕の中で震えながら、時計塔でウィルスに侵され戦いながら覗いてしまった暗い絶望の縁を思い出すから、あっさりと降伏してしまいそうだった弱い自分を思い出すから、恐い……。そう教えてくれた彼女を。覚えている。
だから。今から彼女が独り寝室に戻ったところで、雨が降り続く限り眠れるはずがない事も、カルロスは知っている。自分が目を覚まさなければ、体勢は悪いがあのまま彼女は眠ることも出来たろう。だが、目覚めてしまった。その償いはしなければ。彼女が眠れるように。自分にしか出来ないことをしよう。
彼は上半身を起こし、完全に立ち上がり離れようとするジルの手を取り引き寄せる。
「な、なに?」
彼のその行動が意外だった、と言うよりは期待通りだったのでなんとなくほっとしてしまう。この後も、彼女が欲しい言葉と動きを、彼はくれるだろうか。
「ここで、寝ていかないのか」
「誘ってるの?」
そういう意味ではないことを知りながら、わざとそう言い、微笑みを投げる。そこにはもう先程まであった翳はない。あるのは安堵。それを悟って、カルロスも優しく笑いかえす。
「そうしたいのなら、それもいいな」
勿論今夜そうならないことは百も承知だ。だが絶対に無いなんて、誰に分かる?
彼はベッドの片側に寄り、ジルの為にスペースを作る。そしてもう一度優しく彼女を引き寄せた。抵抗もせずにジルは温もりの残る彼の隣へ舞い降りる。今度こそ、完全なる守りを手に入れた。今の彼女を脅かせるものは、何もない。
片腕で身体を支え、左手を彼女の頬に伸ばし優しく触れる。その手にジルは自分の手を重ね、穏やかに彼を見つめた。カルロスも同じように見つめ返し、額にひとつキスを落としてから甘く彼女の名を囁く。
「眠れそうか?」
ジルは小さく頷いてみせる。それから彼女は空いている片腕を伸ばし、彼の頭を引き寄せた。そして感謝の意を込め、そっとくちづけを贈る。
思いもしなかったその行為に少し驚きはしたが、すぐにその意味を察する。彼はもう一度微笑み、今度は彼女の両の瞼にキスをする。
「おやすみ、ジル」
「おやすみなさい。カルロス……」
――ありがとう――
続けて声にならない声でそう告げた。その言葉は、彼に届いたろうか。
* * * * *
後ろからそっと自分を守るように抱きしめてくれる彼の体温を感じながら、ジルは眠りに落ちていく。あれほど彼女を脅えさせた雨音でさえ、今はもう優しい子守歌にしか聞こえない。
――あなたが傍にいてくれるなら、大丈夫。夜の雨も、恐くはない――
浅い夏の夜は更ける。夜明けまで、あと数時間……。
- Fin -
<<Back