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2011.08.02.
「この後、きみはどうするんだ?」
シェバの所属は西部アフリカ支部であり、その活動地域も支部が担当する地域に限定される。今回のように地域を離れて任務に就くというのは、稀である。所属する支部に縛られずに活動出来るのは、たとえば、クリスや彼と長年組んでいたジル・バレンタインといった一握りの人間に過ぎない。
そもそもアフリカには彼女の生活、そのすべてがある。だから彼女がこう答えるのはごく自然なことだろう。
「アフリカに帰って、元の生活と仕事に戻るのよ」
「ああ、そうだな。そうだった」
彼は一瞬、とても意外そうな表情を浮かべた。しかしすぐにそれは笑みに変わる。
「きみはとても優秀だから、いい仕事をするだろうな」
――優秀、ね。
誰もが憧れ、尊敬するBSAAのヒーローに優秀だと認められたのだから、素直に喜んでも良いはずだった。半年前ならそうしただろう。しかし今現在の彼女の心はそう動かず、代わりにひっそりと自嘲し、それを表には出さずに笑み返した。
「ミスターBSAAにお褒めいただき光栄だわ」
「本気で言ってるんだけどな」
真面目に受け取られていない――そう感じたクリスは困ったような表情を浮かべた。
「あら、私だって本気で答えてるわよ。『光栄です』って」
期待とは違う彼女の返答に、クリスは内心ため息を吐く。
ふざけて言っているのなら良かったのに、彼女の声音と態度にその様子は感じ取れなかった。
握手を交わし、「あなたに会えて光栄だ」とは度々言われる。だがそのたびにクリスは複雑な気分になるものだ。自分はごく普通の男であって、そんな風に思って貰えるような人間ではないと、彼は考えている。しかも、今そう言ったのは半年近くも一緒に仕事をした相手だ。昨日までは数年来の友のように打ち解けていただけに、あまりにもよそよそしいその言葉は酷く堪えた。本気であるなら、尚更だ。
一体自分は、昨夜から今までのどこで――あるいは、なにが――彼女の不興を買ってしまったのだろう。
ひとしきり思いを巡らせてみたが、全く見当がつかず軽く頭を振った。理由がなんであれ、挽回するチャンスがあるよう祈るしかない。
車に近づいたところで、クリスは立ち止まる。つられるようにシェバもその歩みを止めた。様子を窺うように彼女がクリスを見上げたところで、彼の表情が少し引き締まった。そうして傍目にもはっきりと分かるほどに深く息を吸い込み、口を開いた。
「なぁシェバ。君さえよければ、今後もおれと組んで仕事をして欲しいんだが……どうかな」
「冗談でしょ?」
「冗談でこんなこと言えるものか。本気だよ」
シェバは男の青い瞳の奥を探り、その言葉の真偽を推し量る。どうやら本人の言う通り冗談などではないようだ、と判断したが、それだけに激しい苛立ちがこみ上げてきた。
「夢みたいなこと言わないで」
声に潜む冷たさに、クリスの表情が硬くなる。
「シェバ……」
「ねぇわかってるでしょ、ミスターBSAA。あなたが作った組織だもの。いくらそれぞれの支部が柔軟に協力しあってたって、所属の違う人間が組み続けるなんて不可能だわ」
微かに声が震えるのは、怒りか、それとも泣き出したいのを堪えているからなのか。言う本人にさえどちらなのか分からない。
「そう思うか?」
「事実よ」
間髪をおかずにシェバは答える。
曖昧さを残さず言い切ることで、未練とも可能性ともつかないものを断ち切ろうとしているかのようだ。
「第一あなたの“パートナー”は戻って来たでしょう?」
――なら、私なんてお払い箱じゃない。
舌先まで転がり出てきたその言葉を、すんでのところで飲み込んだ。それを言ってはいけない。そんな気がした。
「ジルか。彼女とは多分もう、組めないだろうな」
ぼんやりとした予感として言ったはずなのに、漏れた音はひどく確信的な響きを持って中空に漂った。口にした本人ですらその響きに驚き、説得され、諦めてしまうほどの力を持っている。
現場への復帰を望むかも知れない――いや、彼女ならそう望むだろう。しかしそれを快く思わない者は大勢いる。今や彼女はあらゆる意味で“保護対象者”だ。彼女を“所有”することが、“勝利”への鍵だと考える者は、今後増えこそすれ減ることはないだろう。本人の意志は関係ない。かのウィルスに完全に対抗する術を身に付けてしまったその瞬間から、彼女はそういう存在(もの)になってしまったのだ。
それだけでなく、クリスの個人的な理由が絡んでもいる。
ジルには“かえりたい場所”があった。
ようやく昨日、彼女はその場所に帰り着いたのだ。“今後”がどうなるにせよ、いましばらくは休暇を兼ねて心ゆくまでそこに居させてやりたいというのが、クリスをはじめとする関係者たちの一致した意見だった。それにあの姿を見た瞬間、数年来わずかばかり残っていた希望も――未練も――綺麗に消えたと知った。落ち込むかと思っていたがそんなこともなく、分かっていた事を確認しただけのことだったから、かえってすっきりした、というのが本音だった。
そのおかげ、と言うべきではないかもしれない。しかし今まで見えていなかったものが、見えてきたのは事実だ。認識し、自覚してしまった。
もう一人の“パートナー”が、どのような女性(ひと)で、自分にとってどのような存在になっているのか、を。
ありのままを正直に伝えたなら、彼女はどう思うだろう。三年ものあいだ探し続けた女をあっさりと諦め、手近な女に乗り換えた。心変わりの早い男だと、思われてしまうだろうか。
――きっと、そう思われてしまうのだろう。だがそれも考えようによっては事実なので、その謗りは甘んじて受けるつもりだった。彼女が受け入れてくれるなら、いつかその誤解も解けるだろう。
「我々(BSAA)は彼女を失えない。その可能性は極力排除しなきゃならない」
ずっと近くに居たのだから、その位はわかっているだろう? と声には出されない言葉が、聞こえてくるようだ。
もちろんシェバも理解していた。ジルの体内にどんな希望が潜んでいるのか、そしてもし悪用されたらどんな厄災や悲劇が起きてしまうのか。総合的に考えて、今はどのようなリスクも容認しがたいし、するべきではない。
たとえそれが、現場復帰したいという彼女の意向を無視しているとしても。どれほどの期間そうせねばならぬのか、その他にどのような屈辱や犠牲を彼女に強いねばならぬのかも分からないが、どうしても彼女は失えなかった。
「――そうね。ごめんなさい、ばかなことを言ったわ」
深く息を吸い、吐き出す。それからひたとクリスを見据え、シェバは言った。
「誘いは嬉しいの。本当よ。でも」
僅かに視線を逸らし、彼女は唇を噛む。その事実を口にするのが悔しかった。
「私にはあなたほどの行動権がないの」
シェバ・アローマは優秀だが、エージェントとしてはまだ駆け出しである。当然ながらクリスほど高い行動権限は与えられていない。キジュジュでの作戦が事実上の初任務であり、今回管轄地域を越えて北米にまで来られたのは本当に特別なことだったのだ。
クリスがその活動を西部アフリカ地域に限定するのなら、組んで仕事を続けることも可能だろう。しかしそれはありえない仮定だ。そのようなことに彼自身が耐えられようはずもなく、なにより本部が認めないに違いない。
考えれば考えるほど、今後も二人が組んで仕事を続けられる可能性はないに等しいと思えてくる。シェバは彼に対する好意がそのまま別の感情に変わっていくような気がした。憎い、恨めしい――不可能なことを口にする彼が。その誘いに応じられるほどの力のない自分が。憎い。
クリスは乾いた唇を舐めながら、言葉を探す。
「きみに、レベル10の行動権を与えるように申請したんだ」
彼女は訝しむように視線を上げた。
「おれと同じ、レベル10。それがあれば、世界中のどこでだって捜査と作戦に参加できるし、所属なんて形式だけのものになる。だから……」
「……本当に?」
私にレベル10の行動権が?
黒曜石の瞳が当惑の色に染まり、揺れる。
その戸惑いを拭い去ってやろうと、クリスは力強く頷き肯定した。
「本当はおれと同じ北米支部に異動させようと思ったんだが、でもそれじゃあ結局活動地域が変わるだけで意味がないし、なによりきみの気持ちを蔑ろにしている。だっておれがこのアメリカの大地を愛するのと同じように、きみはあのアフリカを……愛しているだろう?」
――アフリカを、愛している?
言われて考え、彼女はそれが事実だと思い知る。アメリカで大学を卒業したあとBSAAに、それも西部アフリカ支部に入ったのは、あれが大切な土地だったからだ。どんなに傷つこうと、腐っていようと、関係ない。あの大地は彼女が生まれた場所だ。彼女は愛している。全てを与え、全てを奪ったあの大陸を。
愛している。
「無理にそこから引き剥がすなんて、出来るわけない」
クリスは彼女を気遣うようにそっと笑んだ。
「それに、キジュジュできみと組んで分かったんだ。それまではずっと一人でやってこれてたし、問題ないと思ってた。でもやっぱりおれにもパートナーが必要だ。――だからもう一度言うよ、シェバ」
正面から彼女と向き合い、彼女の視線を絡め取る。
「おれのパートナーにならないか」
その言葉は、シェバの耳にはまるでプロポーズのように響いた。
クリスがどの様な意図を持ってそう言ったかは分からない。だがどのような意図があったにせよ、これだけは確実に分かる。ミスターBSAAは自らの意思で彼女を選んだ。彼女にとってそれがどんなに光栄で、幸せなことか――そう言った当人は、分かっていないに違いないが。
「私でいいの?」
「きみがいいんだ」
飾らない言葉が真直ぐに心まで届いてくる。彼女はあまりにも幸せで、泣いてしまいたかった。しかしこんな場面に涙は似合わないだろう。意識して口の端を引き上げ、笑みを作る。
「女だからって、甘く見ないでね」
彼女は手を差し出した。それを見てクリスはふ、と笑う。初めて会った時にも同じ言葉を聞いた。ならば、と彼も同じ言葉を返す。
「前のパートナーも女性だったよ」
差し出された手を取り、堅く握手をする。そうしてその手を離さぬまま引き寄せ、思いがけずバランスを崩したシェバを抱き留めた。
やがて彼女は知るだろう。
彼の心に住む者の名を――。
- Happily ever after -
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