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2007.02.07.
重い溜息を吐きながらレオンは店に入って行った。周りを見回せばありとあらゆる生物が様々な素材で作られ、棚に陳列されている。まるでデフォルメされた博物館のようだ。平日ということもあり、モール同様に店内の人影はまばらで、その大半が子供を連れた女性だった。まれに男性もいるが、やはり子供を連れている。独りで居る男などレオンだけだ。
店内はほのかに甘い香りが漂っている。焼きたてのクッキーのような、どこか懐かしさを感るその香りを嗅いで彼は思った。――これは女の子の匂いだな。
「レオン?」
名を呼ばれてふと下を見ると、彼が探していたはずのジョアンナがそこにいた。
「あぁ、ジョアンナ。そこに居たのかい」
「ぼーっとしてどうしたの? 何か考えてたみたいだったけど」
「いや……うん」
こんなに小さくても女は女。やっぱり女ってのは鋭いものなんだな――そんなことを考えながら、レオンは苦笑混じりで白状する。
「女の子が砂糖やスパイスで出来てるってのは、本当なのかもって思ってたんだ」
そうよ――。それを聞いて、ジョアンナは大人びた笑顔と声をつくって言った。
「それで、男の子はカエルとかカタツムリで出来てるのよね」
「あと子犬の尻尾も忘れないでくれよ」
至極真面目な表情を作ってレオンは付け足す。そうしてから二人は顔を見合わせて同時に吹き出した。
「ねぇ、ジャックは?」
「あいつならあそこ。外で待ってるってさ」
レオンは店の外からショーウィンドウ越しにこちらを見ている大男を指さした。ジョアンナがその指さす先へと視線を向けると、いくらか及び腰ながらも先ほどよりは余裕のある表情で立つクラウザーがいた。二人の視線に気付くと彼は軽く手を振ってみせる。
「まったくもう、ジャックったら」
仕方のない人ね――そう言わんばかりに大きな溜息をついたジョアンナの表情は、ひどく大人びたものだった。どうやら彼らがこういった状況になるのは、今回が初めてではないらしい。あいつの気持ちもわかるけれど、とレオンは思う。でも、独りで入らなきゃいけないわけじゃないんだから、そんなに嫌がらなくても良いじゃないか?
そう思ってから、ふとあることに彼は気付いた。多分、この子はあいつの事が好きなんだ。下世話なことだと分かっていたが、少女が見せた表情や視線の意味を思うと、レオンの考えはどうやってもそこにしかたどり着かない。思うに、多分それは家族に対するものと大差ないはずで、その思いが成就することはないだろう。それに、あと数年も経てば笑い話になってしまうに違いない。
一度軽く頭を振って彼は気持ちを切り替える。そうしてから改めてジョアンナと彼女が抱えている大きなぬいぐるみに意識を向けた。真っ白なクマのぬいぐるみ。多分先ほど彼女が見せたがっていたものだろう。
「クマが好きなのかい?」
そう尋ねると途端に彼女からあの大人びた表情が消えて、年齢相応の子供らしく愛らしい笑顔が戻ってきた。
「だって、大きくて強くて優しくて、それでね、とっても可愛いんだもの」
黄色っぽくて赤いシャツを着たあの子グマならばその形容に納得も出来よう。だが彼女が今抱いているのは「それ」ではない。世界で最も有名で多才なあのビーグル犬よろしく、ステットソン帽を被って首にバンダナを巻いたホッキョクグマだ。大きさは帽子も含めて二フィートくらいはあるだろう。モデルが子グマではないらしく、面長の顔には愛嬌と共にややニヒルな笑みが浮かんでいる。
そんなぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた後に視線を上げて、だから大好きなのだと嬉しそうにジョアンナが笑った。
きっとクマに対して言ったのだろうに、つい彼女の言葉を深読みしてしまい、苦笑にも似た曖昧な笑みを返しながら彼は心の中でそっと呟いた。
――まぁ、どちらにしろ実際はかなり凶暴で危険な生き物なんだけどな。
レオンが言うその“凶暴さ”を彼女が知る日は来るのだろうか。
* * * * *
「良く寝てる」
座席の間から頭を出して、助手席を覗き込んだレオンはそう言った。つられてクラウザーも助手席をチラリと見る。そこには確かに眠るジョアンナがいた。
およそ半日の間、この女の子は大の男二人をあちらこちらへと気侭に引っ張り回していたのだから、無理もない。よほど疲れたのだろう、少女は車に乗るなり眠ってしまった。しかしかすかに笑んだ少女の寝顔はまるで天使のようで、随分と楽しかったらしいと知れる。
でも、心の底ではそうじゃなかったかも。
幸せそうなその寝顔を見ながらレオンは思う。いかに知らなかったとはいえ、自分の存在が彼女に贈られた本当のバースディ・プレゼント――すなわちお気に入りの人間を独占して、共に過ごす楽しい時間を、全てとまではいかないまでもそのほとんど――を台無しにしてしまったのだと、今では理解しているのだから。
「なぁクラウザー。そこの地下鉄んトコで降ろしてよ」
思いがけない言葉に、クラウザーの眉が不信そうに歪む。それをルームミラーで目聡く見つけたレオンはさらに続けた。
「今日はたっぷり楽しませて貰ったから、そろそろ邪魔者は消えるべきだと思ってね。――それにちょっと寄りたいトコあるし」
「……自分の立場は理解出来てたんだな。急ぎでないんなら、ジョーを送った後に付き合ってやっても良いんだぞ」
ルームミラーに映るレオンと目を合わせてクラウザーは言う。レオンのことだ、どうせ要らない気を回した挙げ句に、思いつきだけでそんなこと――特に後半部分――を言っているに違いない。そういうことは“そうだ”と悟られないように言うべきなのに、それが出来ないとは。まだまだ甘い。
「お前がいない方が都合良いトコなの。だから降ろしてよ」
拗ねた子供のように唇を突き出して言うパートナーを見て、クラウザーは肩を竦めた。ならば望み通り降ろしてやると、声に出されない言葉が聞こえてくるようだ。やがて適当なスペースを見つけて車が路肩に止まると、レオンは努めて静かにそっと外に降り立つ。ドアを閉めた後におそるおそる助手席を覗き込むと、少女は未だ夢の中だった。
ほっと息を吐くと、彼はリボンで口を縛った手のひら大の紙袋をどこからともなく取り出した。一体いつの間に買ったのだろうか。
「彼女が起きたら、これ、誕生日おめでとうって渡して」
開いた窓からそれを差し入れ、クラウザーに渡す。
「自分で渡さなくて良いのか?」
いいんだよ、と笑ってレオンは答えた。
「足らなきゃごめんねって付け足して。さぁ、早く行けよ」
謝る理由が分からず、クラウザーは眉を顰めわずかに首を傾げた。相変わらず妙な事を言う――しかしその言葉を呑み込んで頷く。じゃあなと言い残し、彼にしては珍しくゆっくりと慎重な運転で車を発進させた。
レオンが見守る中、二人を乗せた車は流れに乗って遠ざかっていく。その後ろ姿にむかって、彼は手を振る代わりに呟いた。
――でもなぁ、クラウザー。お前は何も分かっていないって、よくおれに言うけれど。
「これに限って言えば、それはあんたの方だと思うよ」
溜息にも似た息を吐き出すと、そっと微笑んで彼は地下へと降りて行った。
* * * * *
レオンを降ろしてから十分ほど走ったのち、クラウザーが運転する車はシーゲル家のドライブウェイに滑り込んだ。そのまま彼は車を玄関先へと乗り付ける。エンジンを切り、降りて助手席側に回り込んだところで、チャイムも鳴らしていないのに玄関のドアが開いた。顔をのぞかせたのは、ジョアンナが成長したらきっとこうなるだろうと思われる姿の女性だった。恐らくエンジン音かドアを閉める音を聞きつけて来たのだろう。クラウザーと目が合うと、彼女はにっこりと笑った。
「お疲れさま、ジャック」
クラウザーは頷き、唇を引きつらせるようにして笑みを返す。助手席から眠ったままのジョアンナをぬいぐるみごと抱き上げると、器用に車のドアを閉めて玄関ポーチの階段を上った。
すれ違いざま、男の腕で眠る愛娘に微笑みかけて彼女は問う。
「わがまま言って貴方を困らせたんじゃない?」
「そんなことはない。いつも通りさ」
そう答えると、彼女は笑った。ごめんなさい、大分迷惑掛けたわね。
「夕食、食べていくでしょう? 遠慮しないで、ちゃんと貴方の分も用意してるんだから。それに、起きた時に貴方が居なかったら、この子すごくがっかりする」
「ありがたくごちそうになるよ」
「もうすぐマーティンも帰ってくるわ。それまでそっちでくつろいでてね」
「ああ。そうさせてもらう」
勝手知ったる親友の家。玄関先からリビングへと移動しながらそんなやりとりをし、クラウザーは少女をそっとソファーに横たえた。それからそばに畳んで置いてあったブランケットを取り上げ、ジョアンナに掛けてやる。彼女は未だ夢の国の住人で、当分目を覚ましそうになかった。寝顔を見、ほっと息を吐く間もなく携帯電話が騒ぎだし始めた。
ジーンズのポケットからそれを引きずり出し、小さな液晶画面に表示された番号を見るなり彼は顔をしかめた。過去に何度かこの番号からの電話を受けているが、良い話であった試しがない。いいや仕事をくれるというのは良いことなのだろうが……。毎度毎度タイミングが悪いこと甚だしい。彼は忌々しそうに舌打ちをしてから応答した。
相手の声を聞いてクラウザーが最初に思ったのは、案の定手放しで喜べそうにないタイプの仕事のようだということだった。かつてこの番号から掛かってきて尚且つこの“男”からだった仕事は、どれもこれもとびきり困難で汚れた仕事ばかりだった。恐らく今回も一筋縄ではいかないような代物なのだろう。
「ああ……いや、違う……そうだ」
ジョアンナから少し離れた場所に立ち、彼は声を潜めて相手と会話をする。“彼”とは実際に会ったことはなく電話で話を――要請に見せかけた命令を伝える、これを会話と呼べるならば――するだけだが、それでも馴染みの人間には違いない。しかし幾度言葉を交わしても変わらない淡々とした口調と声の主は、本当に血の通う人間なのかと疑いたくなる。初めて彼からの電話を受けてから数回は愛想良く振る舞い、なんとか人間らしい反応を引き出そうと冗談を言ったこともあったが、相手は決して乗ってこないし自分は気まずくなるしで、今では彼に対し愛想良く振る舞うこともしなくなった。
「……了解、これから向かう」
二つ折りの携帯電話をぱたんと閉じて、通信を終える。知らず知らずのうちに溜息が漏れた。どうやら今回も美味い手料理を食い損ねることになるようだ。親友夫婦には申し訳ないと思うが、こちらの事情を理解してくれるのがせめてもの救いか。しかし救いがないのはジョアンナのことだ。またしても不甲斐ない自分は彼女を失望させてしまうのだろう。程度の度合いがどうであれ、心ならずもあの小さなレディを傷つけてしまう、それがなによりも辛い。
だからといって仕事を断ることも出来ず、彼はまずキッチンへ行き、忙しく立ち働く親友の妻に急用が出来たと告げる。彼女は訳知り顔で頷いた後、とても残念そうな表情で「仕方ないわね」と呟いた。つまるところ、このようなことは今回が初めてではないということか。そして恐らく、彼が今の仕事から引退しない限りこれが最後でもないのだろう。
キッチンから戻ってきたクラウザーの足は、リビングの入り口でぴたりと止まった。いつの間にか目を覚ましたジョアンナが、ソファーの上で膝立ちをして彼を待ちかまえていたのだ。どうやら好ましからざる事態になったのだと、敏感に察知したらしい。表情から察するに、キッチンでの会話も聞こえていたに違いない。
それは全部思い違いで、悪い夢でも見ていたんだろうと笑い飛ばしてくれたらいい。ジョアンナはそんな願いを込めた視線と表情でクラウザーを見つめた。
彼はその視線を正面から受け止める。しかし困ったような苦笑いを浮かべて彼が口にしたのは少女が期待したようなものではなく、残酷な否定と詫びの言葉だった。
「すまんな、ジョー。行かなきゃならない」
「そんな、だってジャック!」
今にも泣き出しそうな表情でジョアンナは抗議する。
「仕事なんだ」
祈るように、なだめるように。少女の前にひざまずいて視線の高さを合わせると、彼女の髪を撫でながらクラウザーはそう言った。
「この埋め合わせは必ずする」
「いつも、いつも、急にお仕事に行っちゃうジャックなんて大嫌い」
男の大きな手を振り払い、涙を溜めた目でジョアンナは言葉を投げつける。それがどれほど彼を傷つけるのか知っていたから。同時に、言えば自分だって必ず後悔すると分かっていたが、幼さゆえに止められなかった。案の定クラウザーの瞳にはひどく悲しそうな色が浮かび、少女は少女で自己嫌悪で胸が悪くなってくる。
「ごめんなさい、大嫌いなんて嘘。大好きよジャック」
涙混じりの震える声で言い、耐えきれずにジョアンナは細い両腕を男の首に巻き付けた。しがみつくように抱きついてくる少女の背中を優しく叩いてやる。女が――しかもこんなに小さな子供が――感情のままに勢いで言うことをいちいち真に受けて一喜一憂するなど、およそ自分らしくないとは思う。でも、そういう相手が一人くらい居るのも悪くない。たとえ相手が子供だろうとも。なぁ、そうだろう?
「お仕事が終わったら、会いに来て。そうしたら許してあげる」
「あぁ、わかった。必ず来る」
「きっとよ。約束して」
「約束だ」
相も変わらず震える声でせがむ少女に、極力真面目な声を作って応じる。その程度ならば何も難しいことはない。気安い約束だ。どのみち親友には会いに来るだろうから。
「気を付けてね」
少女は腕をほどいてクラウザーを解放すると、間髪入れずにそっと彼の頬に唇を寄せた。予想外のことに狼狽えた男の耳が、ほのかに赤くなる。
それを目聡く見つけたジョアンナはにっこりと嬉しそうに笑った。
「忘れないでね。大好きよ、ジャック!」
- Fin -
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