06 : Wet Work
2003.06.19.
どれほどの時間が過ぎたのか。左手首に付けた時計を読む気にはなれなかった。
煌々たる蛍光灯の光に照らされた屋内とは対照的に、窓の外ではとうに陽が落ちきって真っ暗だ。街灯は物憂げな光でごく狭い範囲だけを暗闇から切り取っている。
いったんは塞がったかに見えた傷口から、再び血が滲み出していた。
失血と怪我と、もしかすると俺には計り知れないなんらかの理由から体温が上がっていた。おかげで視界が霞むし、ひどくだるい。
傷の痛みを堪えて、SIG(ハンドガン)のマガジンを抜いた。残弾数を確かめる。
手のひらに落ちてきたのは、七発。
十分だ。
この銃口を口に押し込んで、もしくはこめかみに押し当てて、ケリをつけるには一発あればこと足りる。
――死ぬのは怖くない。
むしろそれは、唯一の願いだ。
俺はずっと死に場所を探してきた。
それがこんなところだなんて、全くの予想外だったけれども。ようやくこの場所に辿り着けた。
バラになった銃弾を装填し直す。まるで銃弾の代わりに自分の命をマガジンに込めているかの様な気分だ。
わけもなく、涙がこぼれた。
まだ、頬を伝う涙が熱いという感覚がある。
傷の痛みと同様に、それが嬉しいと思った。
今の俺と同じように怪我や失血が原因で死んだはずの仲間達が、再び動き出すのを見てきた。そして手近にいる仲間に襲いかかり、食い殺す様を見た。何発もの銃弾を浴びながら、平然と歩み寄る奴等にはきっと痛覚なんてないに違いない。
だから。この熱さも、傷の痛みさえも感じなくなったら。俺はもうおしまいだ。晴れてこの街に溢れかえるバケモノ共の仲間入りってわけだ。
そうなる前に。
俺は俺でいたい。自分自身のままで、死にたい。
この身体は俺の意思で動かし、支配する。死んでからまた動き出すなんて真っ平だ。
この街でもまた、誰一人として助けられなかった。ならばせめて。これ以上俺のせいで傷つく人が出ないようにしておきたい。本当にもう、誰も傷つけたくなんか……。
マガジンをそっとSIGに戻し、それを腹の上に置いた。
自分の呼吸音ばかりが耳に障る。
望んだ死がもうすぐそこまで、抱きしめられそうなほど近くまで来ていた。
* * * * *
「マーフィー?!」
随分と懐かしい声が意識にかかる薄いもやを切り裂き、深い闇に沈みかけていた俺を覚醒させる。まさかと思いながらも、重いまぶたを引き上げて声のした方に顔を向けた。焦点がなかなか合わず、駆け足で近寄ってくるぼんやりとした人影が見えるばかりだ。
「おい、マーフィーしっかりしろ!」
苦労して何度かまばたきをし、すぐそばにそいつが膝をついた時にやっと焦点が合う。見えたのは期待通りの懐かしい顔。三日分の疲労と消耗で幾分やつれ薄汚れていてもなお、生来のしなやかさを失わない黒髪の男がそこに居た。
――あぁ、親愛なるくそったれな神様。あんたに礼を言う時が来ようとは思いもしなかったよ。今まで優しいことなんか何ひとつしてくれなかったあんただけど、最後の最後で救いをくれたな。
会えて嬉しい、といった意味の笑顔を無理矢理に作る。
「よぉ、カルロス」
傍らに膝をつく親友の名を呼んだ。もう、声を出すのも辛い。
「良かった、生きてるな」
「今のところな……でももう、ダメだ」
「何言ってんの。それしきの怪我で泣きごと言うなよ、せっかくこの街から出ていく目途が立ったんだからさ。動けるか?」
俺の言葉をただの弱音と取ったのか、カルロスは鼻を鳴らして一蹴する。俺を立たせようと、脇から片腕を背中に回してきた。
生気に満ちたお前のにおいを嗅ぐと、異常に食欲が刺激され理性が飛びそうになる。そいつをかなぐり捨てたらきっと、バケモノ同様にお前に喰らいついてしまうのだろう。なんてこった……今までごく当たり前に無意識にやってきたことが、理性を保ち自分であることがこんなにも苦痛で難しい事だとは、思いもよらなかった。
知って、いるよな?
愚かしい程の純粋さでお前が『生』に執着するように、俺は強く『死』を望んできた。そればかりか今ではお前の血肉さえも求めてる。
俺に残された時間はあと僅かだ。何時間、何分、あるいは……何十秒。
潮時、なんだろうな。
口で呼吸し、肺いっぱいに空気を溜める。
「なぁカルロス、頼みがあるんだ」
言うと、俺はSIGをカルロスの手の中に押し込んだ。そして力一杯突き飛ばす。よろけてバランスを崩したカルロスは、無様とさえ言える格好で尻餅をついた。何をされたのかまるで理解していない、とまどった表情で俺を見ている。
壁に手をつきながら、今にもくずおれそうになる膝に力を入れて立ち上がる。ゆりかごのように世界が揺れて、バランスを保って立つのが難しい。まるで俺の理性のようだ。
壁に背を預けて身体を支え、もう一度笑顔を作って――ちゃんと笑えていたかどうかは怪しい――見せた。
「殺してくれ」
その言葉には、愛を囁くような甘さがあった。
裏切りを知ってなお、それを冗談で済ませようとする時の傷ついた笑顔を浮かべてカルロスは首を横に振った。不安定に身体を揺らす俺を支えようとでもいうのか、カルロスも立ち上がり再び手を差し伸べてきた。
「馬鹿言うな、助かるって言ったろ。それにお前を殺すなんて、出来るかよ」
お前はなんて優しくて、残酷な男なんだろう。
俺がどんな奴なのか知っているはずなのに。こんな状態でも『生きろ』と言うんだな。こんな状態でなかったら、もう少しお前の傍で生きても良かったと思う。でも、現実(オレ)を見てくれ。……もう無理だよ。
お前は今も持っているのだろうか。とうの昔に俺が捨ててしまった、理想や希望といった甘い夢を。――切に願うよ。そいつのせいで、お前が死ぬことがないように。そいつがお前を守ってくれるように。
差し出された手を払いのける。その拍子に渡しておいたSIGがカルロスの手からこぼれた。わずかに弧を描いて、床にむかってまっさかさまに落ちていく。
「俺はもう……違うモノになっちまう。それは嫌なんだ。だから――」
どろりとした液体が左目からこぼれる。まばたきしてそれを払うと、視界が半分紅く染まった。どうやら涙ではなく、血液だったらしい。
「マーフィー、出来ねぇよ。お前を撃つなんて……」
今にも泣き出しそうな表情(カオ)で、癇癪をおこした子供のように頭を振る。撃つ以外に選択肢は無い。恐らく頭では理解出来ているのだろう。ただ、感情がついていってないのだ。
「殺れ!」
――俺が俺である内に。手遅れになる前に殺ってくれ。
壁から背を離し、一歩踏み出す。気圧されでもしたのか、カルロスは息を飲んで後退った。さがって、さがって、事務机に当たり、とうとう逃げ場が無くなる。観念したのか、いったん俺から視線を外して目を伏せ、それからまた目を上げた。
琥珀色の瞳は相変わらず泣きそうだったが、その奥に決意と痛みが垣間見えた。
アサルトライフルの銃口が、ゆっくりと上向いた。照準が眉間に合わせられる。
そうだ、それでいい。しっかり狙って、頭を撃ち抜け。それでやっと――望みが叶う。
お前の過去と癒えない心の傷を知って、尚。
こんな汚れ仕事を。
親友のお前に頼む、俺を赦してくれ。
- Fin -
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