たとえば そんな夜 −初夏−

01:Jill

2001.08.16.

 あと10分で、今日の勤務時間が終る。
 報告書をひとつ書き上げて、ジル・バレンタインは手を止めた。時計に目を走らせ、息をつく。
 すばらしい。警察署にしては、かなり平和な一日だった。今日やるべき仕事はもう終えたし、緊急且つ重大な事件でも起きない限り、今日はこれで自由の身だ。いつも仕事に追われていて、こんな経験を滅多にしたことのない彼女は、なんとなく時間を持て余してしまう。次の仕事にでも手を付けようかと思ったけれど、ちょっとやそっとでは終りそうもない。それに中途半端に手を付けてしまうよりは、明日真っ白な状態から始めた方が良さそうだ。
 開け放たれた窓からは、初夏の風が吹き込んで来ていた。本当に何もすることがなく、しかたなしに彼女は頬杖をついて、その窓の外を見やる。底抜けに高い青空に、沸き立つ白い入道雲が美しい。
 思いがけず手に入れた時間で、これから何をしようか考える。
 時間が出来たらやろうと思っていたことが色々あったはずなのに、いざとなると何も思いつかない自分が歯がゆい。そこで彼女は自然と昨夜の「彼」の様子を思い出していた。
 なんだかものすごくはしゃいでいたのを覚えている。理由は、なんだった? 仕事の事を考えながら話をしていたので、大事な部分が抜けている。理由は、えぇっと……。
 つかの間彼女は眉根にしわを寄せて考える。そしてやっと思い当たった。
 あぁ、そうだ。今の自分と同じ。
 確か、今日は仕事が早くに上がれるという事だったはずだ。
 深夜、場合によっては明け方まで仕事をしている事が少なくないから、早く上がれるといってもたかが知れている。だが、昨夜のはしゃぎようを思えばひょっとして一緒に食事が取れる位には、早いのかもしれない。なら、久しぶりに二人で食事に出るのもいいかなと思う。もっともあまり期待しない方が良いのだろうが。
 ――駄目なら駄目でいいじゃない。いつもよりも独りの時間が少し長いだけ。
 大きすぎる期待は、外れたときのショックも大きい。だからあまり大きな期待は持たない様にしている。なんだか相手を信用していないみたいで嫌だし、悲しい事だとは思うけれど、それとは関係なく無意識に自制心を働かせてしまう。
 これからの予定を大まかに決めると、彼女はもう一度時計に目をやった。いつの間にか時間を過ぎている。手早く荷物をまとめ席を立つ。いつまでもここでだらだらしていたら、どこかの誰かさんに仕事を押し付けられかねない。
 ドアを開けると、目の前にコーヒーを持ったクリスが立っていた。
「それじゃ、お先に」
 いつものように、しかしいつもより早い時間に、軽く言う。
「なんだよジル、今日は早いじゃないか?」
「当然。いつまでもだらだらと始末書書いてるようなあなたとは、違うのよ」
 腕を組み、心持ちあごを上げて行く手を塞ぐ彼を見る。
「じゃぁさ、アレ。手伝ってくれよ」
 媚びる様な笑顔を浮かべてクリスは言う。今までの経験から分かっている。こういう顔をするのは、決まって面倒で退屈な仕事(往々にして書類や資料の作成)を押し付けようとしている時だ。ちなみに「手伝ってくれ」は「お前に任せる」と同義語。
「イヤ」
 ……ほら来た……。そんな考えはおくびにも出さず、眉ひとつ動かさずに、にべもなく言い放つ。断る時は、最初が肝心。特にクリスの場合は。
 期待していたのとは正反対の返答に、クリスの表情(カオ)が情けないものに変わる。
「な、なんだよ。まだ何か言ってないだろ」
 ジルは溜息をついて、腕を組んだまま彼のデスクを指さした。そこには散らかっている・・・というのは言うまでもなく、崩れないのが不思議なほど上や両脇に山と積まれた書類の束や本、資料で埋まった彼のデスクがあった。聞かなくても分かっているということを、彼女は態度で示したわけだ。
「あなたの仕事でしょう。たまには自分でやりなさい」
「頼むよジル。本当にほんのちょこっとだけでいいんだ、な?」
 カップを手近な机の上に置き、両手を合わせる。
「拝んでもダメ。何度も同じ事を言わせないで」
 クリスの横をすり抜けてオフィスから廊下へ出る。そこへタイミング良く、地下にある射撃場から戻って来たレベッカがやってきた。頭に射撃用のアイプロテクターをずらし上げていて、やや大きなそれが彼女のあどけなさを一層引き立てている。
「あれ、今日はもうお帰りですか? ジル」
「ええ。たまにはね」
「いつも遅いですもんね。お疲れさまでしたっ、ゆっくり休んでくださいね」
 心からの柔らかい笑顔を浮かべ、レベッカはジルに手を振る。そしてジルと同じように、オフィス入り口を塞ぐクリスの脇をすり抜け室内へ移動。
 自分のデスクへ向かうレベッカを目で追っていたクリスの表情が少し明るくなった。どうやら仕事を肩代わりさせる標的を、頼まれてくれない同僚から押しに弱い後輩へ変えようと、思いついたらしい。
「おい、レベッ……」
 だが彼の表情の変化から意図を読みとったジルが、クリスの言葉を遮る。
「クリス、自分でやりなさい。レベッカ! クリスに何頼まれても引き受けちゃダメよ」
「? はーい」
 一瞬彼女はきょとんとした表情をしたが、すぐにジルの言わんとするところを汲み取り元気良く返事をした。一方目論みが一瞬で吹き飛ばされてしまったクリスは、ジルに恨めしそうな視線を投げる。
「お前俺になんか恨みでもある?」
「かもね。無い、とは言い切れないわ」
 がっくりと肩を落としてクリスはとぼとぼと自分のデスクに戻っていく。今更ながら、溜めに溜めた仕事の山を見渡して途方に暮れた表情(カオ)になる。少し可哀想かな、とも思ったが片付ける時間は十分あった筈だから、自業自得だ。
 たまには、いい薬だわ。
 バイ、と小さく手を振って未だ仕事の終わらない仲間を残し、ジルはオフィスを後にした。



To be Continued...
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