−あなたが私にくれたもの−
−ゆのみさまより−
2002.03.31.
不定期に響く雨音と雷鳴が、その室内の空気を更に重いものにしていた。
「・・・私が私でなくなったら、その時は迷わず撃って」
祭壇の前に横たわった彼女は、自分のホルスターからマグナムを抜き取り、傍らに跪く彼に差し出した。彼は差し出されたマグナムを受け取り、静かに微笑んだ。
「・・・ジル。絶対にあんたを助ける。だから、これはいらない」
ジルの手にマグナムを戻す。マグナムを離した彼の手は、彼女の髪を撫でる。彼女はウィルスに感染していた。発病すればどうなるか、二人はよく知っていた。宿主が死んでもなお生き続け、宿主を操るウィルス。これに感染したら、もう安らかな死など訪れはしない。
「・・・怖いのよ。死よりもウィルスとの闘いが・・・」
ウィルスと闘う為の体力も、気力さえも失いかけていた。彼女は怠い体を無理に動かし、彼に背を向けた。流れ出そうな涙を見せたくなかった。
ジルらしからぬその言葉に、彼は心底驚いた。
「諦めないでくれ。こんなくそウィルスに降参しないでくれ。頼むよ・・・」
彼にとって怖いのは、彼女が諦めてしまうことだ。ジルを諦めたくない。彼にとって、彼女が唯一の救いだから。彼女がいなければ、きっとこの現実に飲み込まれていただろう。この、馬鹿げた悪夢のような現実に・・・。
彼女にとっても、自分が助かるためには、彼だけが唯一の希望。彼女は自問する。死にたいのか生きたいのか・・・。
「・・・行って、カルロス。・・・時間がないわ」
ウィルスが彼女を喰いつくすまでの残り時間は、刻一刻と減っていく。彼に総てを賭けよう。今、自分が持ちえる総てを、彼に。時間と化け物と、二つの敵にうち勝ってくれると信じて。
カルロスはアサルトライフルを掴むと、静かに立ち上がった。彼女の背に何か声をかけようと口を開く。しかし、何を言っても間抜けな感じがして、何も言わずに彼女に背を向けた。おそらく、何も言う必要はないのだ。
ジルはドアの閉まる音と同時に、静かに目を閉じた。
* * * * *
「いやーーーー!!!」
ジルは自分の叫び声で目を開けた。心臓が激しく脈をうつ。荒い呼吸。思わず首筋に手を当てた。指先に触れた液体の正体を確かめようと、おそるおそる目の前に手をかざした。それは、赤く微かな錆臭さを帯びた液体ではなく、透明な汗。
「夢・・・か・・・」
生々しすぎる感触が夢と分かっても、彼女の指先は首筋を撫でていた。
壮絶な夢だった。考えたくない、悪夢。確かに、ブラッドはジルの目の前で、化け物に襲われて死んだ。彼を助ける方法があったかもしれない。そんな後悔が、こんな夢を見せたのか。
そこは警察署だった。ジルの目の前で、ブラッドは苦痛の叫び声を上げた。地に転がる彼・・・。その後、ブラッドを襲った化け物は、ジルに襲いかかった。
そこまでは実際の光景。ブラッドの叫び声が、あの苦痛に歪んだ顔が、目を閉じると、はっきりと思い出せる。いや。目なんか閉じなくたって、思い出せる。
襲いかかってきた化け物から逃れるために、警察署の中に逃げ込もうとした。なのに、どういうわけか鍵がかかっていた。結局、ジルは建物と門の間を逃げ回っていた。すると、彼女の目の前に、死んだはずの彼が立ちはだかっていた。彼はウィルスによって、捕食者となっていたのだ。彼はもう、ジルが判らなかった。そして、ジルの首筋に食らいつく。皮膚を、血管を、気道を、彼の歯が喰い破っていく・・・。
果たして、彼女は自分の叫び声で、目を覚ますこととなったのだ。
ジルはふと、不安になる。自分はまだ、ジル・バレンタインなのか?それとも、捕食者に成り果ててしまったのだろうか?起きあがろうと、両腕に力を入れた。ウィルスが侵入してきた肩の傷から全身に、激痛が走り抜ける。
激痛に耐えかね、力無く投げ出された腕は、血と泥と汗で汚れていた。ジルはその腕を見下ろしながら、まだ自分が自分であることを確信した。
腕から視線を外し、部屋の中を見回した。彷徨っていた視線が、扉にぶつかる。
外で激しい雷鳴が轟いた。
そうだ、彼!彼が出て行ってから、どれくらいの時間が経っているのか。今は何時なのか。いったい、ここはどこなのか?軽いパニック状態に陥ったように、脈絡もなく、頭がぐるぐると回転する。
彼が、何か言っていたような気がする。おぼろげに歪んだ記憶の中を、猛スピードで検索する。そして、ここが時計塔の中の礼拝室だと言っていたことを思い出し、自嘲気味に微笑んだ。時計塔にいながら時間が分からないなんて、なんて皮肉なことか。
いや。時間なんかよりも、彼だ。彼は無事だろうか?ジルは、少し泣きたい気分になった。誰かに身を委ねて、心配しか出来ない自分の歯痒さに。
彼女は首を回し、扉を視界から消した。そして目に入ったのは、有り難くも慈悲深い姿。彼女はその像を、上から下までじっくりと眺めると、薄く笑った。いつも、あなたは見ているだけ。アークレイ山中の、あの館で死んでいった仲間達のことも、ブラッドのことも、この街の住人のことも。
前に神の領域に来た時、あの時も誓った。仲間達の葬送の日だった・・・。このことは、決して忘れてなどやらないと。そして、今日のことも、死んでも覚えていてやる。
夢の中のブラッドを思い出す。あの夢は、真実だろうと思う。彼はきっと、捕食者として、街で流離っているだろう・・・。彼女はもう一度、その慈悲深い顔を眺め、目を閉じた。
誰でも、何でもいい。彼に本当の死の安らぎを・・・。
雨は降り続いており、時折混じる雷鳴が、彼女の関心を外へ誘う。
彼さえも自分から奪うというのなら、もう二度と祈るものか。・・・これは、最後の神頼み。どうか、彼にご加護を。彼に祝福を与えて・・・。
ジルは目を閉じ小さく十字を切る。と同時に、地の底から突き上げるような轟音が部屋中に響き、大地が揺れた。烏が鳴き喚き、建物がみしみしと音を立てる。
「カルロス・・・!!」
思わず彼の名前を呟いた。
* * * * *
カルロスは、ジルにワクチンを注射すると、無防備に仰向けに横たわる、彼女の手を握りながら、傍らに腰を下ろした。彼女が閉じていた目をあけ、呟くように言った。
「・・・いやな夢を見たの・・・」
彼は、言葉の続きを待ったが、部屋には沈黙だけが流れた。強いて聞きこうとはしなかった。今は、彼女が嫌な夢をみたことを、彼が知っていればそれでよかった。
「・・・で、それに祈ったの」
しばらくの沈黙のあと、ジルは傍らの神を見ながら言う。彼はこの、およそ神頼みなんてしそうにない彼女が、一体何を祈ったのか。夢の内容よりも興味を引かれた。
「なにを?何を祈った?」
ジルはカルロスを一瞥すると、また目を閉じた。
「秘密」
いつもの突き放したような口調だった。が、言葉の端のいたずらな微笑みを、カルロスは見つけ苦笑した。彼も、この神に祈っていたのだ。ジルが目を覚ますように・・・と。
不意にジルが動いた。起きあがろうと、両腕がもがいていた。その腕をカルロスが掴み、自分の首の後ろに回した。
「掴まって」
ジルは、腕を彼の首に巻き付けるようにしがみつき、彼は右腕をジルの背後に滑り込ませた。背中に当たる彼の手に、意識が集中するのがわかる。彼女はお互いの顔が、すぐ横にあることに感謝した。相手の顔は見えない。彼女に今見えるのは、彼の肩越しの天井や壁、そして彼の背中。
カルロスが腕に力を込めて、ゆっくりと彼女を抱き起こす。ジルの髪が彼の顔にかかり、若い女性特有の、甘やかな匂いと共に彼をくすぐる。多分、だらしない顔してるだろうな、などと思う。戻ってきてからずっと感じていた、穏やかな気分が彼を満たしていく。
「大丈夫か?」
「えぇ・・・。もう平気」
ジルは真っ直ぐに彼を見て答えた。彼は、彼女が元の彼女に戻ったことを確信した。それは、この穏やかな時間が終わることを意味していた。カルロスは意を決して、宣言した。
「ジル。俺は、先に行く。知りたいことがあるんだ。後で必ず合流するから」
思いがけない言葉に、ジルは一瞬、怪訝な顔をした。が、「ジルを必ず助ける」と言った、あの時と同じくらい強い意志をその瞳に認めて、彼女は微笑んだ。
「気を付けてね」
「ジルもな」
カルロスは銃を持っていない左手を、名残惜しそうに、彼女の頬に伸ばした。ジルはその温かな無骨な手から、自分の中に何かが入ってくるのを感じた。
「あぁ、そうだ。ニコライが生きてるって、言ってなかったよな」
「・・・嘘でしょ?」
「そう簡単には死なないらしいぜ、あの銀髪野郎は」
吐き捨てるように言う。
「とにかく。野郎には気を付けるんだ」
ジルが頷くのを確かめると、彼は扉の方に向き直った。彼女の白く細い指が、カルロスの腕をとらえた。
「待って、カルロス!」
カルロスが心底驚いたような顔で振り向いた。ジルは真っ直ぐ彼を見て、にこりとも笑わずに言った。
「あなたと一緒じゃなきゃ、絶対にこの街から脱出しないわよ、私。だから、いい?私を本当に助けたったら、必ず、生きて私と合流するのよ?死ぬのは許さない。絶対に許さないから」
カルロスの頭の中に次々と、ジルを賞賛する単語が浮かぶ。が、それらの言葉では言い尽くせないほど、圧倒的な存在。あぁ、きっと、この女は女神に違いない。この内から放たれる輝きと、それを支える強さと美しさは、女神以外のなにものであろうか?
「分かってる」
彼は眩しいような顔で答え、その顔を笑顔に変えて続けた。
「俺の命はジルの命ってことだろ。もちろん、あんたのは俺のものってこと。二つ分だぜ?そう簡単に終わったりしないよ」
ジルが微笑したのを見て、彼は更に悪がきのような笑顔に変えた。
「それにさ、ワクチン見つけたご褒美に、1度くらい、あんたとデートできるかと思ってるんだからさ」
悔しいくらいサマになってるウィンクを、彼女に投げる。ジルの顔が、はにかんだような、困ったような、呆れたような、何とも言えない表情に変わった。彼は声を立てずに笑いながら、彼女に手を振り、戦場へと帰って行った。
そして、彼の背中を見送ったジルもまた、戦場に戻る。扉の前でふと立ち止り、後ろを振り返った。
先ほどと変わりない、慈しみなのか悲しみなのか、判然としない表情の神がいた。ジルはその姿を見つめた。そして、ふーっと息を吐き出すと、勢いよく扉を開けた。
- Fin -