−林檎さまより−
2002.02.24.
ラク−ンシティの事件の後。
カルロスはジルと共に海の上に居た。休息を入れずに仲間の居る欧州へ渡ると言い張るジルを制止する事が出来ず、彼は同行する事にした。
ジルの提案で、見張られている可能性の高い空路はやめ、撹乱の意味も含めて海路で一度日本へ向かい、そこから空路で欧州へ向かう事になった。
本当はもっとゆっくり、ジルと話す時間が欲しかった。だがよくよく考えてみれば、船上でも話す時間はたっぷりある筈だった。カルロスはまずはジルに休むように言い渡すと、自分も別にとった部屋で休む事にした。
思えばこの2日、ほとんど眠っていなかった。ジルがあの化け物からウィルスを受けて意識不明だった時も、自分はずっとその傍らで眠らずに彼女を見守り続けた。
真っ白いジルの顔。
微かな寝息さえ聞こえなかったら、死んでいるように見えてしまった。あの2日間、何度もカルロスは不安にかられ、何度もジルの寝息に聞き耳をたてた。
自分の為にとった客室に入ると、カルロスはベッドに仰向けになり、黄ばみがかっている白い天井を見つめた。
ラク−ン・シティでの、あのめちゃくちゃな3日間が脳裏に押し寄せて来る。
幼い頃からゲリラ部隊に身を置き、凄まじい戦場を日常の事として育ってきた彼にとっても、ラク−ン・シティでの出来事はあまりにも常識を逸脱したものだった。
それにも関わらず、カルロスは襲い来る化け物達ではなく他の事を思い出していた。
新聞社で最後のゾンビを仕留めた後、床に散らばる書類に不覚にも足を滑らせ、机(おそらく)に後頭部を強打し、気を失った。
どれくらい過ぎたのか、厳しさを秘めた美しい声に呼び戻された。覗き込むその顔は先に聞いた声にふさわしく、厳しく美しかった。
S.T.A.R.Sのメンバー。そう聞いてすぐに納得がいった。ニコライは「小娘」と言ったが、本当は一目見てジルが一般人でない事は感じられた。右手に握られたハンドガンのように、どこか冷たく闘争的な雰囲気を、彼女は持っていた。
カルロスの脳裏から離れないのは、数々の修羅場や化け物ではなく、ジル・バレンタインの存在そのものだった。
睡眠不足と疲労困ぱいの状態にあっても何故か落ち着かず、眠りに落ちる事が出来そうになかった。
カルロスは身を起こすと、風に当たる為にデッキへと向かった。
通路に出たカルロスの瞳は、そこに佇むジルの姿を見つけた。
ジル。
カルロスは声に出さずに名前を呼び掛けた。手摺の前に佇み、静かに暮れ行く空と海を見つめている彼女。
彼女が今何を考えているのか。それを思うだけで、カルロスの胸は鷲掴みにされたように痛んだ。だが自分でもその痛みに当惑した。
クリス。彼女は仲間のひとりの名前を、愛しそうにそう呼んだ。いや、愛しそうというのはカルロスの勝手な思い込みだったのかもしれない。
だがジルがクリスという名前を口にするたび、自分でもどうしようもない程の不快感に苛立った。
クリスとはどんな人物なのか、知りたくてたまらなかった。どんな容姿でどんな声で……そして、ジルは彼をどう思っているのか。
ジルが静かに黙っている時、いつでもクリスの事を考えているのではないかと勘ぐってしまう自分にうんざりした。ジルの頭の中にはもっぱらアンブレラとの対峙の事しかない事は、カルロスにはよく分かっていた。それなのに、とカルロスは頭を振る。
何と声をかけようかと考えあぐねながら近付くと、言葉が決まらないうちにジルが振り返った。身に付いた用心深く素早い動作で。カルロスはとっさに得意の悪戯っぽい笑顔を浮かべると肩を竦めて見せた。
「おいおいジル、寝るんじゃなかったのか?」
ジルはほんの少し微笑んだ。遠くを見るような目付きでカルロスを見つめている。
「ちょっと、今までの事を思い出していたの」
そう言ってまた目の前に広がる海へ視線を移した。その方向は、先程出向した港がある方向。アメリカの方向だった。
ろくに故郷を持たないカルロスには郷愁という感情はなかったが、ジルには愛する祖国を離れる不安が少なからずあろう事は理解出来た。
カルロスはジルに歩み寄り、寄り添うように並んで海を眺めた。
陽は海の彼方で沈みかけている。周りの雲も海も眩しいオレンジ色に染め、ラク−ン・シティでの悪夢をしばし忘れさせた。
シャンプーの甘い香りが漂い、カルロスはジルに視線を移した。シャワーを浴びたばかりなのか、ジルの濡れた髪はかき上げられたまま落ちずに耳の後ろへと流れている。 いつものジルとは違って見えた。カルロスはいつものジルが見たくなり、手を伸ばしてその髪に触れ、耳の下へと流れ落とした。
困惑するジルの表情に気付き、カルロスは慌てて手を引っ込めた。自分でも何故そんな事をしたのか分からずに戸惑った。
「その方がいいぜ」
とっさにいつもの調子で取り繕ったが、自分でぎこちないと感じてしまった。だがジルはさして気にした様子もなく、「そう?」と言ってカルロスが下ろした髪を撫でて自分で整えた。
視線を外したジルはそのままカルロスに背を向け、客室の方へ歩きだした。
「そろそろ寝るわね。カルロスも休んだ方がいいわ」
一度だけ振り返りおやすみと言った後、ジルはもう振り返らずに自室へと消えて行った。
カルロスはジルの背中がドアに消えるまで、ずっと視線を逸らさずに見つめていた。
ますます眠れなくなったと判断したカルロスは、船底の酒場へ行って酒を飲んだ。
酒場はそこそこ賑わっていたが、今のカルロスにとってはそのざわめきも遠くの物だった。酒を飲めば眠くなるだろうと思ったが、飲む程にもやもやした気持ちが増していくだけだった。
テーブルに突っ伏したカルロスは、ジルと話したくてたまらない気持ちと、みっともない事は絶対したくないという自尊心とをほんの少しの間戦わせると、席を立って酒場を出た。
ジルはドアを叩く音に素早く目を覚ました。ドアを叩く音に紛れて、カルロスが自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。
ジルはすぐさまベッド脇に置いたハンドガンを手にすると、ドアに駆け寄り鍵を開けた。ドアを開けると直ぐに何かにぶつかり、少し開いただけで止まった。隙間から覗くと、カルロスが額を押さえている。
「ごめんなさい、そんなに直ぐ側に居るとは思わなかった……。何かあったの?」
ジルが半ば呆れながらドアを大きく開くと、カルロスは部屋になだれ込みながらジルに詰め寄って来た。酒の臭気がジルに届く。
「何でそんな直ぐ寝るんだよ、オレはヘリでラク−ンを脱出した時からジルと沢山話がしたいってずっと思ってたのに。ジルは口を開けば仲間とかクリスとかの話しかしないし、さっさと欧州へ行くとか言うし、それじゃオレとはあそこで別れてそれっきりでも別に良かったんだな? 一緒に来てくれとか絶対言わないし、それに絶対そう思ってもいないしな! ジルはとにかく今クリスに会いたくて仕方ないんだろ……」
喋っているうちに、今になってカルロスを猛烈な眠気が襲ってきた。ジルが体を支えようとしているが、カルロスはふらふらとベッドに倒れ込んだ。
「ちょっと、大丈夫? 酔っ払ってるわね」
カルロスは必死に目を開けようとしたが、重い瞼は張り付いたまま動かなかった。それでも何とか意識を保とうとする。
「ほら、カルロス飲んで」
ひやりとした感触が頬に当たり、カルロスの瞼はようやく開かれた。視野には水の入ったグラスを持ったジルがいる。
冷たそうに水滴をたたえたグラスに手を伸ばし、カルロスは一気に飲み干した。だがそれで眠気が吹き飛ぶ訳でもなかった。
「何だよジルなんて、いつもクールでオレの事どうでもよさそうで…オレだってこんなみっともない事言いたくないんだぜ。なんか馬鹿みたいじゃねぇか、オレひとりであれこれ悩んで……」
カルロスの意識は一気に遠のいた。ジルが名前を呼んだ気がしたが、ほとんど聞こえてなかった。そのまま暗闇に身を落とし、睡魔に身をゆだねた。
まぶしい光に目を覚ましながら、カルロスは新聞社での事を思い出していた。ジルと初めて会った時、酷い頭痛がした。それは後頭部を強打したせいだったが、照れ隠しにどうやら2日酔いじゃないみたいだ、と言ってみせた。
だが今回は本当に2日酔いのようだった。ガンガンする頭を押さえながら身を起こし、そこで初めて我にかえる。
見慣れないベッドシーツ。自分は服を着たまま。
昨日の夜の事が、いっぺんに思い出された。素早く室内を見回すと、部屋の隅のソファに横になっているジルと目が合った。カルロスの立てた物音に今しがた目が覚めた様子で、それでも昨夜の事を冗談混じりに咎めるような表情を浮かべ微笑んでいる。
記憶を失っていたらどんなに良かったか。
だがカルロスには、昨夜の失態の全ての記憶があった。自分の言った言葉とジルの言葉まではっきりと覚えている。取り返しがつくのなら何でもするが、残念ながらその術は皆無だった。
「おはよう。気分は?」
カルロスが言葉を発する前に、ジルがソファから起きかがって口を開いた。途端に彼の口から言い逃れが止めどなく流れでた。
「ごめん! 何かオレ、昨夜は珍しく酔っ払っちゃって…。本当、普段は酒強いんだぜ。あんなに酔った事ないのに。でも昨夜は寝不足のところに深酒しちゃって、自分でも訳分からなくなっちまって、あんな事色々言っちまって………」
その「あんな事色々」の一言一句を思い出し、カルロスはどうしようもない程憂鬱になる。
女を口説くのも、落とすのも慣れているのに、とカルロスは脈打つように痛む頭を抱えた。何故昨夜はあんなやきもちを妬いた子供のような行動をしてしまったのか、あの時の自分を締め上げて聞き出したい気分だった。
ジルは小さく笑い声を立てている。カルロスが困惑しているのが少しだけおかしいようだ。
すっかりしょげかえっているカルロスの前に立ち、ジルは腕組みしたまま少し首を傾げ、何かを思い出す仕草をしてみせた。当のカルロスは、ばつが悪くてジルの足下しか見られないでいる。
ジルが「そうね…」と前置きしてから、その整った口を静かに開閉しはじめる。
「どうして直ぐに寝るのか…って言われても、確かカルロスが私に休むように言ったんじゃなかった? それに私も、この先の事を考えて寝ておいた方がいいと思ったしね。それと、私もカルロスとは色々話したいと思ってる事があるわ。でも口を開けば仲間とクリスの話しかしなかったかしら? とりあえず行動を起こすのに必要な事柄を伝えただけのつもりだったけど」
カルロスの寝ぼけた2日酔いの頭がみるみる冴えていった。それに合わせるように、無意識のうちに彼の視線はジルの足下から上へと移動されていく。
「欧州へは、確かに早く行かないといけないって思ってるわ。カルロスがどうするかは、カルロス自身が決める事だと思ったの。一緒に来てくれとは絶対に言えないわ。貴方を巻き込む事になるんだから……。でも、来てくれたらとっても心強いと思ってたわよ。今クリスに会いたくて仕方ない訳じゃないけど、盟友の安否はもちろん気掛かりね」
カルロスの瞳がジルの思案顔を捕らえた。ジルはちゃんと聞いていたし、ちゃんと覚えていたのだ。カルロスと同じように、彼の言った一言一句を。
「いつもクールとはよく言われるわね、自分ではそうも思わないんだけど。カルロスの事をどうでもいいと思った事はないわ。それに昨夜の事は、みっともないとも馬鹿みたいだとも思わなかったわよ。それどころかちょっとカルロスらしかった。悩んでるのは貴方だけじゃなくて私も同じよ。今でも、本当にカルロスに来てもらって良かったのか自問してる。危険な目に遭わせるんだもの。本当に貴方の事を大切に思うのなら……」
そこまで言って、ジルははにかんだように微笑んで言葉をとめた。
「話の続きは、朝食でもとりながらどう?」
ジルはドアの方を示した。カルロスの顔がみるみる輝いていく。
「ジル、オレ…」
飛び付かんばかりの勢いで立ち上がったカルロスを軽く制して、ジルはなおもドアの方へと促す。
「鏡は見た? とても朝食をとる格好には見えないわよ。一度部屋に戻って支度をして来てよ」
時間はいっぱいあるんだから、とジルは付け足す。それは今だけの事ではなく、ずっと先の未来の事も含まれているのだと、カルロスはそう受け止め、許されるのなら部屋中を飛び回りたいと思った。
「待ってろよジル、すぐ支度してくるからな。あんまり格好いいからって惚れ直すなよ!」
無邪気に言い残して部屋を走り出て行くカルロスの背中を、ジルは優しい瞳で見守った。
空は快晴。風は心地好く、これから先に待つ苦難にはまるで似つかわしくなかった。
それでもいい、とジルはその空を窓から見上げる。ささやかな平穏を楽しむ今だけは、と。
- Fin -