2008.06.02.
目の前に小指ほどの大きさのアンプルがある。
アンブレラ社が誇る若き天才ウィリアム・バーキン博士は、そのアンプルを二本の指でつまみ上げ、デスクライトの白い光にかざした。薄い黄色の液体が宝石のようにきらめいて揺れる。彼はそれを慈しむような優しい眼差しで眺めた。
……そうだ。それは彼にとって確かに愛し慈しむべきものなのだ。
終わりの見えない研究の過程において、気まぐれとも言うべき偶然によって生み出された成果のひとつ。彼が成した業績を讃える記念碑にも似たものだ。
――たとえそれが世界を滅ぼす可能性を秘めた、忌まわしいものであるとしても。成果には違いない。
ひとしきりアンプルを眺めたのち、緩衝材代わりの脱脂綿を詰めた小さな箱にそれを収めながら、バーキン博士は先ほど交わした会話を思い出していた。盗聴防止の措置がとられた回線から聞こえてきたのは、懐かしい声だった。バーキン博士と同時期にアンブレラ社の幹部養成所に入所し、共に研究員としての人生を歩み出した男、アルバート・ウェスカー。当時は同じチームで研究をしていたので、当然のように四六時中一緒にいたものだ。が、数年前のある日、彼は情報部へと転属していった。
理由は訊かなかった――訊いたところで答えてはくれなかっただろう――が、バーキンはそれを心から惜しんだ。彼の基準からみても、ウェスカーは優秀な研究員だった。その彼がいなくなれば研究・開発の進捗の鈍化は避けられないだろうという、あくまでも自分本位な考えからではあったが。いずれ巻き返すにしても、それは痛手には違いない。
以来、顔を合わせることはおろか話をすることさえもなくなった。
その気になればいくらでも話をする機会は作れたはずだった。しかしどちらも互いの近況や私生活にはまるで興味がなかったので、珍しく話をしたかと思えば終始一貫して必要最低限の業務連絡のみで挨拶さえもないという始末。もはや縁は切れたも同然――かに見えた。
だからその時の電話も、共に責任者となっている『幹部養成所再利用計画』に関する話だとばかり思っていた。確かにその用件であったことには変わりないのだが、その話が済んだ後にそれまでと全く変わらない口調で彼はこう切り出してきたのだ。
――“T”のサンプルが欲しい。
思いがけぬ言葉を聞き、バーキン博士の目が細まる。欲しいと簡単に言うが、あれは危険極まりない代物だ。かつて共に研究をしていたのだから、それを知らぬわけではあるまいに……。疑念を押し隠し問い返す。
「ひとくちに“T”と言っても、色々あるよ」
『どれを選ぶかはお前に任せる。……そうだな、「もし自分に注入するなら」というので選んでくれるか』
「――ふぅん、面白いことを言うね? いいよ、分かった」
博士が了承の返事をした途端まるで長くしゃべりすぎたと恥じるように、突然回線が切られた。別れの言葉など当然ない。これまでもずっとそうであった。今回も、そしてこれからも彼らの間には気遣いや感傷など不要なのだ。
受話器を架台に戻してから、コツコツと指先で机を叩き、目を閉じて束の間思案する。
博士はウェスカーの声と言葉に背信と背徳のにおいを感じ取っていた。……もっとも、背徳行為というならば今日(こんにち)までに彼が行ってきた実験のほとんどがそれに該当するに違いないのだが、あいにく博士は一般的な倫理観など持ち合わせていない。あるのは貪欲な探求心。そして子供が見せる無邪気な残酷さ。あのウィルスの研究をするには、それは多分に不可欠な能力に違いなく、そういう意味では彼以上の適任者はいないと言えた。
彼は、アルバート・ウェスカーはこの社(アンブレラ)を去るつもりなのか? 果たしてそんなことが許されるのだろうか?
これほどまでに深く会社に関わり、いわば“裏側”を知った人間がそうやすやすと去れるとは考えにくい。これまでにも裏側を知ってしまい、良心の呵責に耐えかねたのか、社を去ろうとした者は何人もいた。しかしそのような気配を見せた途端、皆いずこへともなく姿を消した。だが、博士はそうとは知らぬ内に、そのほとんどの者と会っているに違いない。陽も差さぬ地中深くの、実験室で。
いずれにしろ、博士には関係のない話だ。
思索を打ち切って彼は立ち上がり、白衣の裾をひらひらと揺らしながら薬品やウィルスサンプルが保管されている部屋に向かい、いくつかの必要な物と共にサンプルを持ち出してくる。誰にもそれを咎められることもなく、また怪しむ者もいなかった。
そして現在に至る、というわけだ。
小さな箱を眺めながら、そこに旧友の姿を重ねる。
何に使うか知らないけれど、とそっと息を吐き出しながら博士は考える。そもそもの仮定が馬鹿げている。何故自ら進んでこんなものに感染したいだなどと思うのだろう。選定の基準をそのように設けると言うことは、つまり彼はそういう腹積もりなのに違いない。
だが――
アルバート・ウェスカーは頭が良くて抜け目のない男だ。これをどう扱うにしても、必ずや望みを果たすだろう。
うっすらと笑みを浮かべ博士は囁いた。
「幸運を祈る」
- Fin -