2007.06.23.
鼻先に白いものがある。
十数秒を費やして、それが自分の手であると認識する。ゆっくりとまばたきをして初めて、自分が目を開けていたことを知った。
……夢を見ていた気がする。
鮮やかな色彩、生々しい感触、鮮烈なにおい。ただし温度だけがない。そういった感覚的なことは覚えているのに、肝心の内容はというとまるで思い出せなかった。ならばきっと大した内容ではなかったのだろう。
丸まっていた体を伸ばして寝返りを打つ。
室内は暗いけれども、眠りにつこうとしていた時に比べたら薄ぼんやりと――特にカーテンの隙間辺りが――明るい気がする。まだ目覚めるべき時間ではないはずなのに、どうして目覚めてしまったのだろう? そう考え、薄く笑う。
どうして、なんて考えたって分かるわけがない。溜息を吐いた後、喉の渇きを感じて私はベッドを抜け出した。少し水を飲んでもう一度寝よう。
リビングに通じるドアを開けたところで、私はふたつの違和感に戸惑い立ち止まる。
ひとつは自室とは明らかに違う室温。それから、ほんのりとした明るさ。明るい、といっても照明器具の人工的な明るさではなくて、これはきっと太陽光に違いなくて……だからこれはつまり夜明け前の薄闇なのだ。
頭ごと視線を巡らせると、開け放たれた窓と揺らめくカーテンが見えた。窓から見える僅かばかりの空はスミレ色で、どうやら思っていたよりも夜明けは近いらしい。
閉めてあったはずの窓が開いているのだから、本来ならばもっと警戒するべきなのだろう。でもリビングに立ちこめる香りが、その必要はないと教えてくれていた。それが連想させるのは、くつろぎ、あるいは目覚め。
コーヒーの豊かな香り。
強盗に押し入ったのにのんびりとコーヒーを淹れる犯罪者もいないだろうし、暗殺者なら私はきっともう二度と覚めない眠りについていたはずだから、その線も除外していいだろう。だからこれはルームメイト――訂正。どう考えてもソウルメイトの方が適切ね――の仕業に違いない。
ゆらゆらと揺れるカーテンのそば、窓辺に寄せられた椅子の上にタバコと湯気を立てるマグカップが置いてあった。湯気の量を見るに淹れてからまだ間もないはずなのだけれど、それを置いたはずの人の姿が見あたらない。
――どこにいるのだろう?
そう思った矢先、窓ガラスの向こう側で人影が揺れた。誰か、を判別し特定するには、逆光なうえ少し暗すぎる。だけどシルエットは見間違えようがなかった――あれは彼だ。違うかもしれない、とは考えない。だってそんなことあり得ないから。
彼が室内に来るまで待つか、こちらから行くか。少し考えて、私は行くことにする。
私は戸口を離れ、バルコニーに向かって進んだ。部屋の半ばまで達した時、バルコニーに居た彼がタバコの煙を引き連れて室内を覗き込んできた。いや、室内に戻ろうとした、というのが正解なのかも知れない。でもどちらでも結果は同じ。だってその時点で彼の動きがピタリと止まったのだから。
「悪い、起こしちまったか」
ばつの悪そうな表情を浮かべて、彼は溜息にも似た息を吐く。どうやら、私を起こさないようにそうっと静かに行動していたらしい。でも私が目を覚ましたのは彼の所為ではない。だから私は彼に近寄りそっと否定する。
「ううん、そんなことない。あなたこそこんな時間に何してるの?」
「俺? 俺はその、さっき帰って来てそのまま寝ようと思ってたンだけどさ、やっぱサッパリしてからのがイイなと思ってシャワー浴びたらなんか目ぇ冴えちゃって。とりあえずコーヒーでも飲もうかなって」
はにかんで、それでいて困ったように笑って彼は言った。私はなるほど、と頷いてはみせたけれど、変なことする人だとも思う。だって、これから寝ようとしている人がコーヒーなんて。何考えてるのかしら。
私は彼の横をすり抜けてバルコニーに立つ。冴えた空気は肌寒いくらいだけどそれが心地よくて、私は大きく伸びをした。体から寝起きのけだるさが抜けていく。
一旦屈んでから隣に並んで立った彼の手には、先程椅子の上に置かれていたマグカップがあった。ぼんやりとした視線で馴染みの風景を眺め、マグカップに口を付けている。その姿を見て不意に喉の渇きを思い出し、私は彼が手にしたマグカップを指さし尋ねた。
「まだある?」
「いや、これで全部。少ししか淹れなかったんだ――まさか起きてくるなんて思わなくてさ。ほら、こんな時間だし」
ひらりと片手を動かし空を示す。手の動きを追って視線を移せば、そこには先程よりも随分と白んだ空があった。わずか五分前まで広がっていたはずの夜空はどこかに追いやられ、世界が色付き始めてきていた。
「飲みかけでよければ、あげるよ」
乾ききらない髪を指で梳き、あくびをかみ殺しながら彼が言う。
「ありがと。半分だけ貰おうかな」
私は差し出されたマグカップを受け取り、ぬるくなってきたコーヒーを一口すする。ミルクも砂糖もなしの、薄いブラックだった。起き抜けの、そして眠りにつく前の二人には多分丁度良い濃さなのだろう。マグカップを返そうと彼を見ると、またしてもあくびを漏らしている。よくよく見れば琥珀の瞳が再度やってきた眠気と闘っていて、ひどく疲れた顔をしていた。きっとベッドに倒れるなり眠ってしまうに違いない。
――そうね。あなたはハードな仕事を終えて戻ったばかりで、本当なら今は二人とも寝ているはずの時間。でもこの数日は本当にすれ違ってばかりいて、顔を合わせることさえできなかった。今を逃すと明日になるまできっと会えない。だから、ねぇ、もう少しだけ一緒にいて欲しいな。
いまだ目覚めぬ街を眺めながら。
夜明けのコーヒーを、あなたと一緒に。
- Fin -