S.T.A.R.S. Office
2003.01.21
空は高く、痛々しい程に青く澄んでいた。空気は焼けて暑いが、湿気は少ない。
過ぎゆく7月。しかし、まだ7月だ。
S.T.A.R.S.ブラヴォーチーム用のオフィスに女性が独り、佇んでいた。成人年齢にも達さず、まだ少女の面影を捨てきれない彼女の名はレベッカ・チェンバース。彼女はこの数日間で一気に歳を取ったように感じていた。
あれからもう随分日が経った様に感じるが、実際はまだ一週間も経っていない。
あの日を境に色々なことが変わってしまった。物理的にも、精神的にも。
本当は、なにも変わってなどいないのかもしれない。自分は自分。レベッカ・チェンバースであることに変わりはない。それでも、あの出動前と完全に同じ価値観をもった自分ではないことに気付いている。
もはや以前ほどの職務に対する潔癖さ(とでも言おうか)は、無くなってしまった。法に従い正しい事をするのと、人間として自分の良心に従い正しい事をするというのは、必ずしも同じでは無いことを知ってしまった。法を遵守し職務を果たす事が完全な正義ではないと……。
もっとも、完全な正義というのが何なのか、まだわかっていないけれども。
事実と真実は違う。真実は自ら見極めねばならない。
彼女が初出動で学んだのは、そういうことだ。
あの日あの森からチームで唯一生還した彼女は、出入口のドアに近い場所にある自分の机に座り、空っぽの室内を見渡す。そしてそっと、息を吐いた。
ほんの何日か前迄は溢れる様に人がいて、狭い程だった。
主のいない机なんて一つも無かったのに。
かつてその机にあった写真や小物。遺品となってしまったそれら品々は彼らの家族に渡すために整理し、片付けてしまった。彼らを偲ぶような個人的な品は、もう何一つこのオフィスには残っていない。その所為だろうか。今ではとてつもなく広く、荒涼として見えた。夏なのに。肌が粟立つほど寒々しい。
目を閉じれば何もかも、においすら鮮やかに思い出せる。
途端に今までなるべく考えない様にしていたこと、心の奥底に押し込めていたことが堰を切ってあふれ出した。
厳しく、そして優しかったあの人たち。
あの森から、彼らは帰ってこられなかった。彼女以外の全員が、あの森の何処かで命を落とした。実力も経験も、皆彼女よりも格段に上だったのに。理屈から言えば、彼女が真っ先に死んでいてもおかしくはない。でもこうして生きている。多分、運が良かったのだろう。
彼女が最期を看取れた人はたったの二人。二人とも息を引き取る瞬間まで、自分よりもレベッカの身を気遣ってくれていた。
済んだばかりの彼らの葬儀。
せめて皆の亡骸を連れて帰れたら良かったのに、それも叶わなかった。自分が帰って来るだけで精一杯だった。だから、彼らの葬儀は遺体の無いままおこなった。墓地に掘られた穴に空っぽの棺を収め、皆で土を被せた。
彼らの墓はこの街にあるけれど、それは中身のないモニュメントに過ぎない。彼らはあの森で、あの一連の施設の何処かで今も眠っている。
――祈ろう。
人だけでなく、あそこで死んだもの全ての魂が安らかに眠りますよう。
* * * * *
今にもこぼれ落ちそうになる涙を手の甲で拭う。泣いている暇などない。それに、全ての片が付くまで涙はこぼさないと決めたのだ。やることはまだ沢山ある。それこそなにから手を付けたら良いのか分からない程沢山。
重く悲しい気分を追い払うかのように、軽く頭を振った。
レベッカは襟元から服の下に指を入れると、指先に触れた細い鎖をつまんで引っ張り出した。それには楕円形の薄い金属プレートが二枚ついている。認識票(ドッグ・タグ)の名で知られる、軍人ならば誰もが必ず常に身につけている物だ。
S.T.A.R.S.は警察組織に組み込まれる一部隊であり、合衆国四軍(※注)のいずれかに属する物ではない。カードタイプの身分証は持っていても、このような認識票は最初から存在しない。だからそこに刻まれた一連の文字列や数字は、当然レベッカを指し示すものではなかった。
プレートに刻まれた、自分のものではない名をそっと指で撫でる。
……ビリー。
声に出さずに呟いた。
私が生きて帰れたのは、貴方のおかげね。危ないところを何度も助けてもらった。貴方がいなかったら私、きっとあの列車からさえも出られずに死んでいたわ。
わずかに口元をゆるませ、森の奥に停車した列車で出会った男の事を考える。
逃走した死刑囚とそれを追う警官。二人の立場は全く相容れないものであり、それ故互いの第一印象は最悪だった。男と女の出会い方にしても、立場といい状況といい、考え得る限り最悪の部類に入るだろう。
協力しようと言われた時、どんな理由があろうと、たとえ一時でも犯罪者と手を組むなんて真っ平だと思った。それでも、生き延びる為には協力するよりほかに道はなかった。
彼に対する警戒心が信頼に変わったのは、一体いつの時点だったのだろうか。
はっきりとこの時、とは特定出来ないが、一連の異常な状況が二人の距離を縮めたのは間違いない。徐々に互いの距離が縮まるにつれ、彼女は死刑囚である男を知り、理解していった。
レベッカが思うに、兵士として生きるには多分彼は清廉で優し過ぎたのだ。その優しさが、結果的に彼を破滅へと追いやった。また、恐らく彼は海兵隊と仲間を本当に愛していた。だから、彼は。彼らの為に、その身に降りかかるいわれ無き罪に対する罰を、言うなれば彼らの『裏切り』を甘んじて受け入れたのだろう。
その胸の内に、真っ暗な絶望を抱えて。
* * * * *
レベッカはそれから暫くプレートを弄び、眺めて過ごした。それから認識票を服の下に戻すと、机の上にあるラップトップコンピュータを起動し、澱みのない動きでタイプを始めた。ビリー・コーエンと呼ばれた男を、あの日MP(憲兵隊)車両で移送途中に何者かに襲われ消息を絶った元海兵隊少尉を、公式に消し去るために。
ねぇ、ビリー? 本当に、感謝しているの。
貴方が危険を冒してまで私にしてくれたことに比ぶるべくもないけれど。私にはこの位しかしてあげられない。
貴方が生きている事は、私が知っていればいい。私だけが……。
何度か推敲と修正を重ねた後に、プリンタから吐き出された最終稿を手に取り、一息ついた。これにサインをして提出すれば、この件はおしまい。あとは何があろうとも『彼は死んでいた』と言い続ければいい。
こんな報告、誰かが怪しむだろうが、既に多数の犠牲者を出しているあの森に入ってまで死体を確保しようとする者は居ないだろう。どれ程の重装備をしていようとも、あの森に人間が踏み込むのは危険で、愚かだ。少なくとも数名の死傷者は覚悟せねばなるまい。第一死体を探し出して得られるメリットに比べたら、リスクやデメリットの方があまりにも大きい。たかが死体一つにそれ程の価値があるとは思えない。
この文書だけではあまり説得力がないかもしれない。なにせ実際に彼の『死体』を見たのは彼女しかいないのだ。
彼女はこの報告に信憑性を持たせる為に、一つの証拠物件を添える事にしていた。
それが、今彼女の胸に下がっている認識票だ。プレートは二枚ある。この内の一枚を報告書と一緒に軍に送れば、多分。何とか信用してもらえるだろう。
もう一枚は記念品として持っていることに決めていた。彼と駆け抜けたあの馬鹿げた悪夢のような一夜が、現実のものだったのだと知る為に。そしてビリー・コーエンその人の存在を忘れぬように。
記念品であると同時に、それは彼女にとってお守りのようなものでもある。
ビリーと別れたあとに向かった大きな館で、それは冷静さと奇妙な安心感を与えてくれた。今にして思えば自分はそこまで彼に依存していたのかと恥ずかしくもなるが、もう過ぎた事。それに、誰しも一つくらいそういったものを持っているはずだ。彼女の場合、それがたまたまビリー・コーエンの名が刻まれた認識票であったに過ぎない。
椅子に座ったまま窓の形に切り抜かれた青空を見上げて、彼女は姿勢を正した。
別れ際に交わした敬礼。
その動作に言葉に出来ない様々な想いを込めたが、『さようなら』だけは入れなかったし、言わなかった。それは彼も同じだったと思う。
あれが別れの挨拶であった事に変わりはない。でも、永遠の別れにはしたくなかった。だから、同時にこっそりと再会を誓う。
いつかまた、会えると信じてる。
その時は絶対、“お嬢さん”なんて呼ばせないんだから。
- Fin -
※ 合衆国四軍・・・陸(U.S.Army)、海(U.S.Navy)、空(U.S.Air Force)、海兵隊(U.S.Marine Corps)