はなむけの言葉

エンディング後・ランクCG 船(小型船舶)編アナザーVer.

2002.01.12.

 夕日に染まる甲板で、彼女は落ちてゆく太陽と融けあう水平線を見つめていた。いいや、それはあまり正しくないかもしれない。彼女の瞳はもっと遠く、はるか海の向こうの欧州を見据えていた。そよぐ潮風が彼女の髪を撫で、揺らしていく。顔にかかる幾筋かの髪を払いもせずに、まるで彫像のように立ち尽くしていた。
 カルロスは随分前からそんな彼女の様子を見ていたけれど、この先どれほど待っても――たとえ夜の帳が降りても――きっと身動きひとつしないだろう。もう持ち時間も尽きかけている。これ以上は一分たりとて無駄には出来ない。ためらいながらも彼はジルの傍らに立つ。
「ジル?」
 びくりと身体を震わせてジルは現実に引き戻される。カルロスが隣に来ていたことにも気付かないほど深く考えこんでいたようだ。
「綺麗ね」
 夕日に見入っていたのだと言わんばかりに、彼女は肺に溜まった空気を声に変える。それが嘘だとどちらにも解っているのに。他愛無い言葉や嘘を並べれば、現実から目を逸らしていられるとでも思っているのだろうか。そんなはずはない。彼女に限って、そんなはずは。
「明日、だろ。いいのか? こんなところに居て」
 とは言っても、彼女の当面の住まいだったホテルから、彼女の都合も確認せずにまるで誘拐するようにこの洋上まで連れ出して来たのは彼自身だ。しかし当然のことながらそれほど酷い扱いはしなかったので、彼の手から逃れようと思えばいつでもそうできたはずだった。そうしなかったのは、彼女の意志。もしかすると連れ出されるのを期待していたのかもしれない。なんの反応も返してくれない彼女に苛立ちを憶えたが、それを押さえて核心に触れる次の言葉を投げる。
「何度も聞くようだけど、やっぱり俺を置いて行くんだな?」
 心臓を抉るようなその言葉に、ジルは堪らず彼の方を向く。彼女の澄んだ瞳には苦痛や決意、そして苦悩のあとが浮かんでは消えていく。どれほど悩み続けたのか一目で分かる。恐らく自分の決断に未だ自信が持てないか、後悔しているのだろう。彼女はうつむき消え入りそうな声で呟く。
「ごめんなさい」
 どんな言葉が返って来るのか、分かっていたつもりだった。しかしどうしても受け入れがたいその一言。決別をも意味する言葉に対して、彼女の名をうめくように呟いただけで言葉が続かなくなってしまう。無理矢理塞いでいた心の傷が、再び大きく口を開いて血を流す。彼の顔が苦痛で歪んだ。想像以上に彼女の決意は固い。どうあってももう、その決定を変えるつもりはないのだろう。だけど彼は彼女のそんなところが好きだし……今は同じくらい嫌いだ。
「ごめんなさい」
 二度目の謝罪で、より決定的になる。もうあとには引けない。
 ――この戦いに貴方を連れて行かない私を、許して欲しいだなんて。そんな虫の良いはなしはない。貴方が一緒に戦ってくれるならどれ程心強いだろう。貴方のことだから言えばきっと一緒に来てくれる。それは分かってる。だけど私の我侭で貴方を巻き込むなんて出来ない――
 どこまでの広がりを見せるのか未だ掴みきれずにいる敵――巨大企業・アンブレラ――を相手に、無謀とも言える戦いを仕掛けようとしているジルとその同志。ほんの些細な下手を打っただけで、傷付くのはもとより命さえ落としかねないほど危険な戦い。気づかぬ内に死の影はこの背中に忍び寄る。いつまでその影から逃れ続けられるだろう。自分のことならどうでも良い……覚悟も出来ているし危険も困難もすべて承知の上だから。だがそれは自分と盟友に限ってのことだ。非道い言い方をしてしまえば、全くの部外者である彼が傷つき、果てには命が刈り取られる姿など誰が見たいものか。おぞましすぎてその可能性すら考えたくもない。
 これは彼のことを想うからこそ下した決断だった。だがジルは理解していない。言わない我侭がどれほど残酷なのかを。彼が彼女と共に戦うことをどれほど望んでいるのかを。
 カルロスは何度か言葉を言いかけたが、その度に言いたいことは空にとけて消えてしまった。気まずい沈黙が降りて、居心地が悪い。それでもとにかく必死に言葉を捜した。とにかくきっかけを作らなければ。
「いいんだ。知ってた。ちょっと確かめたかっただけだから、気にするな」
 無理におどけて見せる。声もその表情も痛々しくてたまらない。うつむいたままの彼女の頬に手を触れて、上向かせる。彼女の瞳が、潤んでいた。それを見てあの決定が、彼女自身にとっても酷いものであることを彼も知ってしまう。ならばどうして……。ぶつけたい言葉を呑み込んで続ける。
「それにヨーロッパだろ。別に月に行くとかじゃないんだし、飛べばすぐだ」
 まばたきした拍子にこぼれた彼女の涙をそっと指で拭ってやる。今にそれでは間に合わない程になるに違いない。自分の我侭でこれ以上彼女を辛い目に合わせたくはないし、これ以後二度と会えない訳じゃないと、必死に自分に言い聞かせる。そして言いたい事の一つ目を何とか声に出す。
「だからこれだけは憶えていてくれ。俺は何があってもジルの味方だから。絶対に裏切らないから……助けが必要なら連絡して欲しい。何があっても、どこへだってすぐに飛んでいくよ」
 微笑して付け加える。――もし裏切ったらその手で殺していいよ。
 ジルの瞳から大粒の涙が溢れて頬を伝う。貴方は私の酷い裏切りを、赦すと言うの? それともその優しさは私への罰?
 その涙は大いにカルロスを戸惑わせた。何故泣くのだろう。理由が分からない。拭いてやろうにもあいにく適当なハンカチなど持ってはいないし、だからと言って服の袖でというのも変だ。ふと思いついて彼はとめどなく伝う流れに唇を寄せた。微かな潮の味が舌に広がる。両の頬で何度か同じ事を繰り返すと、終には唇の上で動きを止めた。
 瞬きするほどの間を置いてからそっとくちづける。片手を滑らかな曲線を描く彼女の背中へ滑らせ、抱き寄せた。一瞬彼女が怯む。その隙をついてカルロスは舌を歯の間から差し入れる。そのキスから逃れようとジルは足掻いたが、一層きつく彼の腕に捕らわれてしまうだけだった。カルロスは逃げ惑う彼女の舌を執拗に追い、絡めとろうとする。結果的にそれはまるで噛み付くような激しいものになってしまう。
 激しくなればなる程一層彼女は逃れたいと足掻く。彼とのキスが、嫌な訳ではない。もう数え切れないほど交わしているし、むしろしたいと思う方だ。ただ……こんな最低の気分の時に、こんなに激しいキスをしたくはない。
 鼻から漏れた吐息は、そのつもりはないのにその都度喘ぎ声に変わってしまう。それは信じられないほど扇情的で、当人でさえ我が耳を疑う程だ。これではまるで悦んでいる様ではないか。だがそれは始まった時と同じくらい唐突に終る。

     * * * * *

 ようやく彼女の唇を解放したカルロスは、わずかに腕の力を弱めた。それを感じてジルは許す限り彼の身体を押しやり離れようとする。それで作れた隙間は握りこぶし一個分。あまり役に立ちそうもない。
 悪態のひとつもついてやろうとジルは自分よりも頭ひとつ分は背の高い、インディオの血をひく彼を睨め上げる。しかし正面から視線をぶつけ彼の表情を見たら、何も言えなくなってしまった。知り合ってからまだ日も浅いし、共有した時間も決して多くはないが、それでも彼は実に多彩な表情を見せてくれた。しかし今目の前に居る彼は、今まで見たどの表情でもない仮面を被っている。まるで初めて会う他人のようだ。
 彼は憂いを帯びたまっすぐな、いっそ真摯とも言える眼差しで彼女を捕らえ、ふたつ目の言いたい事を声に出す。
「ジルを俺のものにしたい。躰でジルを覚えていたい。……――躰で俺を覚えていて欲しい」
 今までになかった訳ではない。だがこんなにもはっきりと彼が躰を求めてきたのは、これが初めてだ。どうこたえれば良いのか分からなくなって、その言葉の真意を推し量る様に彼の瞳を覗く。下心などは微塵も無く、真剣に、そして純粋にそう思っているのが解る。想いが、痛い。
「あと何時間かしたら、発つの」
 彼の気持ちを踏みにじる様なセリフしか吐けない自分が、本当に嫌になる。こんな事を言いたい訳では無いのに、いつの間にか心のままに言葉を作る事も行動することも出来なくなってしまった。本心がどこにあるのか、自分のことなのにもうわからない……。
「俺のものになってくれ。今だけでもいいから」
 拒絶には、馴れている。辛抱強く彼はそう訴えた。力任せに彼女を組み敷いて自分のものにすること位、後味は悪いが彼にしてみれば至極簡単な事だ。だけどそれでは意味が無い。それでは本当に欲しいものなんて手に入れられないことぐらい、分かってる。それでももしどうにもならなければ……最終的に犯罪に手を染めてしまうかも知れない自分が居るのを彼は知っていた。
 一方のジルはめげずに彼がそう言ってくれることが、素直に嬉しかった。だがそれにどうこたえるべきか、まだ迷っている。その迷いを感じ取ってカルロスは彼女の手をとり、指にキスを落とす。
「もしほんの少しでも俺の事好きだと思ってくれてるなら、どうかいいと言ってくれ」
 希望と絶望が入り交じった不安な瞳。彼がもっと幼い子供だったら、『泣きそうな』という表現が一番しっくりくる表情だろう。まだジルはこたえない。今度は唇に軽くキスをする。
 ――頼むよ、ジル……。
 橙の残照はいつの間にか消え、青白い月と星の光が辺りを支配し始めていた。船室から漏れ出る光が薄闇を切り裂く。これ以上の沈黙は、無意味だ。
 彼はこの沈黙を受諾と判断する。悪い方には考えたくない。彼女の耳たぶにキスして囁く。
「我侭かな、俺?」
 ジルはわずかに首を横に振る。我侭なのは私の方。自分の事しか考えずに全てを決めて、貴方を想うフリをして貴方を傷つけた。無言でいることで今も貴方の想いを踏みにじり続けている。なのに私を求めてくれるなんて、信じられない……。本当は私、貴方に愛される資格なんてないのに。
 こんなにも罪深い私を、どうぞ赦して。胸の内を探るまでもなく、こたえなんて最初からこれしかなかったのに。どうして私は認めたくなかったのだろう。一体なにを恐れていたのだろう?
「……――」
 細い声でジルがなにごとか呟く。声は聞こえたが、船腹を打つ波音が邪魔をして意味がつかめない。これで俺も犯罪者かなと思いつつ、彼は聞き返す。もう一度言って?

「今だけでもいいから、貴方のものになりたい」

 それはまさに青天の霹靂。言葉の意味を理解するまでに数秒かかる。精一杯微笑んではっきりとそう口にする彼女をまじまじと見て、今の言葉が幻聴で無いことを確かめた。ともすれば狂ったように笑い出しそうなのを何とか堪えて、彼は落ち着こうと深呼吸を繰り返す。
 ――これが夢だなんて事があるだろうか。ああ、そうだ。夢だって構わないさ。覚めなければ、これが現実。
 鼻の奥がツンとして、涙腺が刺激されているのが分かる。最後にこの感覚を味わったのはいつの事だったろうと、つかの間思いを巡らす。あれはもう何年も前だ。……あの時は本当に辛くて二度とこんな感覚は味わうものかと思った。しかし今なら、こんな痛みさえも心地良い。
 あんまりにも幸せで嬉しくて、泣きたくなることがあるなんて知らなかった。涙なんて辛い時にしか出ないものだと思っていた。貴女に出会ってから、今まで死んでいたいくつもの感覚が次々と蘇ってくるのを感じる。どうやら俺は本当の意味で『新しい人生』を手に入れるきっかけをつかんだらしい。
「あぁ、ジル。どうしよう、俺今すげ……泣きそう」
「泣いていいよ。見ているのは私だけだもの」
 彼女は優しく微笑んで、両腕を彼の首に回す。ジルにも同じ経験がある。だからどうすればいいのかは分かっている。でも彼は結局泣きはせず、ただ嬉しそうに微笑んで唇を求めてきた。彼女はそれに応じて唇を寄せる。
 相手の唇をまるで貪りあうかの様なキス。互いの舌が触れあい、絡まる。やがてカルロスが彼女を支配していく。ジルは彼の髪に指を這わせながら、そのキスにただ黙って身を任せる。
 もう、後戻りは出来ない。戻りたくはない。進むべき道はあるけれど、戻る場所などどこにもない。自分たちには、今が全て。
 彼の両手はジルの背中と腰の辺りに回され、しっかりとその身体を引き寄せる。濡れた唇が彼女の喉をゆっくりと這いおりていく。彼女が頭を傾けるとその耳に吐息が、舌が、唇が触れた。彼の肩に額を当てゆっくりと身体を反転させ、彼の胸に背中を預ける。
 彼の指がジルの髪を掻き上げる。肩から鎖骨へ、そしてあらわになったうなじに伝う唇の感触。瞬間、まるで電流のように悦びの震えが背筋を突き抜けて行く。
 遠い岬で、灯台の灯がひらめいていた。
 優しく彼女の身体を撫でていた彼の手は、不意に背中と膝の裏に回され、彼女を横抱きにして空中に浮かばせた。そのままゆっくりと船室内に移動する。
「どうしたの?」
 船室を照らすライトに目をしばたたかせながら、不審そうにジルは訊ねる。
「今は俺のものだろう? どこかの覗き見野郎に、ジルを見させてやるつもりなんかない」
「誰もいないわよ。見てるとしても、月と星だけじゃない」
「それでも。月でも星でも見させない。見ていいのは俺だけなの」
 可愛いひと! まるで子供の様な独占欲を目の当たりにして、ジルはつい苦笑してしまう。でもその気持ちは分からないでもないし、壁も天井もない甲板では気が散りそうだった。だから屋内に入ってほっとしたといえば、その通り。
 カルロスは彼女に笑われて面白くなさそうな顔をしたけれど、それも一瞬後には消えた。腕から降ろした彼女にもう一度くちづけし後ろを向かせると、彼女を包むサンドレスのファスナーを焦らすようにゆっくりと引き降ろす。徐々にあらわになっていく彼女の背中に一度キスをした。降ろしきると両手を滑らせて、肩から、腰から服を落としてゆく。滑り落ちた服は彼女の足元に花のように広がった。
 首筋や肩にキスをしながら彼女を抱き寄せ、彼はジルの柔らかな乳房を優しく揉む。右手は彼女の肌の感触を楽しみながら、ゆっくりと下に向かい丁度腰骨の辺りで動きを止めた。今更……ためらっているのだろうか?
 彼女は狡猾に、恥知らずにも彼の手を誘うように、動く。
 誘われるままに彼の手はショーツの中へ、その奥の方へと滑り込み、やがて彼女の中心を探り当てる。小さく喘いでジルはカルロスにくちづけを求めた。
 唇を重ねたまま、簡易ベッドまで移動する。たった数歩が酷くもどかしい。もつれながらも彼女をその上に横たえ、ジルを守る最後の小さな布を剥ぎ取った。一糸纏わぬ均整の取れた肢体を、欲望に濡れた瞳でカルロスは見つめる。
「綺麗だよ」
 もう少し気の利いた言葉があれば良かったのに、出てくるのはごく普通の賞賛。ジルは微笑んでそれを受け止めると、彼の服に手を伸ばした。貴方も脱いでという意思表示。にこりと笑んで彼は乱暴に服を脱ぎ捨てる。彼女の視線に恥じらう様子も無く晒すのは、無駄な贅肉など付いていない、戦いの中で鍛えられた躰。そしてその脇腹に薄く残る古い傷痕。ジルはその痕にそっと指を這わせる。今更ながらに思い知らされる。自分は彼のことを随分知っているつもりになっていたけれど、本当は何一つ知らないのだと。いつも巧みにその話題を避けられて来たから、あまり気にもしなかった彼の過去。その片鱗を見てしまった。これは銃創だ。
「カルロス、これ……」
 傷痕について聞きたそうな彼女の唇に指を当て黙らせる。その話は寝物語には相応しくない。特に今は。消した筈の辛い記憶が蘇る。刹那苦しそうな表情が浮かんで消えた。
「いつか話してやるよ。今はダメだ」
 それがいつのことなのか二人とも全く見当がつかない。あまり考えたくもないが、これは果たされないかもしれない約束だ。
 いくつの果たせないかもしれない約束をするつもりだろう。
 いくつの叶わないかもしれない夢を、彼に見させるつもりなのだろう。
 首筋から胸元に唇を這わせ、顔をうずめる彼の髪を撫でながらそう思って、ジルは胸に疾しさを覚える。約束を反故にすることで傷つくのは彼。空約束をするつもりは無いけれど……まるで自分が傷つかずに済む方法を、必死に考えているようで憂鬱になってくる。しかしそれもほんの数秒のこと。考え事などしていられない。
 胸の先や陰部を苛み、弄んで、ジルを快楽の淵へと追い立てる彼の指と舌。ちょっとした刺激を感じるたびに漏れる彼女の嬌声。それが一層彼の興奮をかきたてる。
 ジルの身体にきつくくちづけの痕を残しながら降りてゆく彼の唇。彼女の白い肌に幾つも残る赤い花弁のようなその痕は、これが消えずにいるうちは自分のモノだと主張する徴にも似ている。きっと彼女はこの痕を見るたびに、今日の事を思い出し、彼の事を考えるだろう。あまり多くは望まないが、そのくらいなら構うまい?
 唇はやがて彼女の陰部へ到達する。彼はそのなめらかな丘へ恭しくキスをすると、ジルの上にその身を重ねた。そしてゆっくりとジルの中に入っていく。
 
 押し寄せる快楽の波に、彼女は嬉々として乗り出してゆく。どこか深いところへ引きずり込まれていくような、この感覚。全てを忘れて、全ての神経を彼に集中させる。
 ――このまま時が止まればいい。そうすればずっと貴方のもので居られるのに。このきわどい快楽の海で、溺れて居られるのに――

     * * * * *

 果てた後のけだるさの中で、蕩(トロ)けた瞳の彼女にキスをする。柔らかな髪を撫でていたら、まるで猫の様に身体を擦り寄せて来た。愛しいジル。この先こんな彼女を見る男が、一体何人いるのだろう。俺だけなら良いのに、と願わずにはいられない。
 カルロスがブランケットを引き上げているとき、時計が目に入った。見てしまったあとで、時計など全て海に放り込むか、壊すかしておけば良かったと後悔する。
 午後9時。
 時間切れだ。
 陸(オカ)に戻らねばならない。
 仕方なく彼はジルを揺する。
「ジル、起きて。服を着るんだ」
「もうクタクタなの……朝まで待って」
 唸る様に言って、彼女はブランケットを被る。朝までどころか死ぬまでだってこうしていたいのが本心だが、そうはいくまい。カルロスはそうっとジルの手からすり抜けてベッドから降り、床に脱ぎ捨てていた服を拾って手早く着る。
「港までは一時間位かかるから、それまでに服を着てくれ」
 仕方なくカルロスはそう言い残して操舵室に消えた。エンジンをかけ、錨を巻き上げた船は静かな海面を滑り出す。別れのときが、刻々と近づいていた。


 ホテルの駐車場に車を入れた時には、10時半を回っていた。洋上からここまで時間にしておよそ90分程だが、その間ふたりは会話らしい会話をしていない。間に落ちる沈黙は重苦しく、落着かないほど居心地が悪かったが、どちらもあえて沈黙を破ろうとはしなかった。話すべき事など何も思いつかないし、なにより黙って自分の殻にこもっているほうが楽だったから。
 あまり動きたがらない彼女を促して車を降り、部屋まで送る。それで稼げる時間などたかが知れているが、その瞬間は少しでも先に延ばしたい。たとえ延ばした分だけ辛くなるとしても。今は傍に居たい。
 ゆっくりと上昇していくエレベーター、明るく清潔そうな廊下。やがて到達するそのドア。部屋の中までは、入らないつもりだった。なのに、何かに引き込まれるようにドアをくぐってしまったのは、一体どちらの弱さだったのか。ここまで来てもなお離れがたいと思う自分なのか、本心をさらけ出した後の彼女が見ていられないほど脆かったからなのか。いずれにしても別れのタイミングを一つ、逃したようだ。
 こんな別れは、あっさりと済ませてしまった方がどちらにも良いに違いない。遠回しにやっていたって後が辛いだけだろう。そう考えて、カルロスは思わず彼女に触れてしまわない様に、ポケットに両手を突っ込んだ。そして口火を切る。
「なぁジル。俺明日見送りには行かないから」
 一瞬彼女の表情が揺れる。唇をかんでただ溜息をつくように、そう、と言った。
「今夜は良く寝た方がいい。朝早いんだろ」
 微笑んで彼は言う。親しい友人に向けるような、ただただ優しいだけの微笑み。一種彼女を拒絶するような雰囲気があって、洋上の彼とはまるで別人のように感じる。
「これでお別れね?」
 声が震えないようにするので精一杯だった。言葉を選んでいられない。
「そうだね」
 感情を殺して彼はこたえる。今更、何だっていうんだ。分かっているはずだろう、だってこれは貴女が決めた別れなんだから。俺はそれに従うしかないんだ。
 スカートを掴んでジルはぐっと彼を見つめる。濡れた瞳に強い視線。何か言いたい事があるようだが、声になって出てこない。それでも恥を忍んでようやく言葉を絞り出す。
「もう一度抱いて、と言ったら……貴方は抱いてくれる?」
 恐る恐る、といった手つきで彼女の右頬に触れ、逡巡した後に彼は答えた。
「止めておくよ。そうしたら二度と放せなくなる。明日の朝君を行かせないために、俺は何をするかわからないし……多分その為ならどんな事でもするだろう」
 悲しい瞳で微笑んで、カルロスは左の頬に別れのくちづけを贈る。あぁ、これ以上は駄目だ。今度こそ本当に手放せなくなってしまう。きっと今が潮時。穏やかに手をおろすとドアに背を預けて、後ろ手にドアノブを回す。鍵の外れるその音が予想以上に大きく二人の耳に響いた。別れの合図だ。
「元気で。しっかりやれよ!」
 まばたき一つの後、まるで夕方の子供がまた明日と言っているような気安さでそう言った彼の表情は、いつも通りの人懐こくて屈託のない笑顔だった。軽く手を振って、素早くドアの向こうに消える。その笑顔を鮮やかな残像にして。

 彼が消えたドアに向かってジルはうわごとのように呟く。視界が揺れて、溶けた。
 ――私は貴方のもの……でも、貴方は私のもの?

     * * * * *

 透き通る、晴れやかな青空。旅立つには良い日だ。滑走路が良く見える場所に彼の姿はあった。時間と機体のマークをチェックしてから、遥か海の向うの大陸に向けて飛び発つ飛行機を見つめ、彼は言わなかった言葉をようやく声に出す。
「ジルが好きだよ」
 待ってるとは言わないし、忘れないでくれとは言えない。勿論忘れられたくないが、俺はジルに枷をはめたくない。ジルの重荷になりたくないから。ジルの心に居る男になりたいとは思うけど、それはジルが決めることであって俺にはどうすることも出来ないし、まして強制なんか出来るものではない。
 だけど俺という存在が、貴女の枷や重荷にならないなら。俺が貴女の戦う力になるのなら。何処へだって飛んでいく。要らなくなるまで傍にいる。
 だから呼んで。俺はここにいる。

     * * * * *

 ボイスメールが二件届いている。
 ほんの二時間程前に入れられたものだ。一件目は雑踏が約10秒続いて切れた。ただの間違いかいたずらだろう。それから7分後にもう一件。今度はきちんとしたメッセージが入っている。その声が流れ出すなり、まるで心臓を鷲掴みにされたような感覚を味わう。全身が硬直し呼吸をするのもままならなず、内容がろくに頭に入ってこない。彼は無言メールから聞き直した。耳障りな雑踏に混じるヒントを、注意深く聞き分ける。ざわめきの向うから微かに聞こえてくるのは、どこか広い建物内で響く案内放送……。納得した。これは同じ人物が残したメッセージだ。
 涙を滲ませてひとしきり狂ったように笑い続けると、もう二度そのメッセージを再生して、言葉をきちんと頭に叩き込んだ。それから受話器を取り直すと、彼だけが知る番号にかけ、メッセージを吹き込む。
「今から行く。飛んでいくから、俺が行くまでそこに居て。――あぁそうだ、俺も同じだよ。でもこれは会った時に言う。信じられないな、なんだか夢を見てるみたいだ」
 中途半端なものを残すと、彼は慌ただしく表に飛び出して行った。
 頭上では相変わらず清々しいまでの青空が広がっている。まるで彼の旅立ちを祝福しているかのようだ。

     * * * * *

 彼女がこのアメリカの大地から去るまで、あと30分。ジルは出発前最後の電話を何本か掛けていた。どれもこれも、これからの戦いに備えての必要で重要なもの。なのに一本掛け終わるたびに、気分はどんどん憂鬱になっていく。
 浮き立った気分になると思っていた訳じゃない。この先にある厳しい戦いを思って気が引き締まるとか、決意も新たにとか……そう言った気分になると思っていた。どうしてこんなに気が重いのだろう。さっきのバリーとの電話の内容が原因? 一足先に欧州で行動を始めたクリスとの連絡がここしばらく取れていないという……。
 違う。そうではない。気が重いのではなくて、心が寒いとでも言おうか。虚ろなのだ。一体いつからこうだったのだろう。今朝ベッドから抜け出た時にはもう、こんな気分だった気もする。それとも、もっと前から?
 彼女は再び受話器を取り上げる。この番号が最後だ。別にかける必要もない電話なのだけれど……。彼女はためらいながらもそらで覚えた番号をひとつずつ確かめるように、ゆっくりと慎重に押してゆく。2つ呼出し音がした後に繋がると、機械で合成された女性的な音声がメッセージを残すよう促してくる。口を開いて声を出そうとした途端、頭が真っ白になってしまい、考えていたことがすべてどこかに飛んでしまった。
 なんだか自分が情けなくなってきて、受話器を握りしめたまま数秒彼女は立ちつくす。その後そっと電話を切った。考えをまとめてもう一度電話をかける決心をするまでおよそ5分を要した。
 もう一度同じ番号を素早く押すと、先程と同じ合成音声が同じメッセージを同じ調子でしゃべっている。きっと『彼女』はこの先何十回でも何百回でも、電話を受ける度に同じ事を繰り返してくれるのだろう。いつまでも変わらないものだってある。そう考えると、少しだけジルの気持ちが和らいだ。
 いつ聞いても耳に障る甲高い発信音の後、彼女は深く息を吸い一拍置いてからその言葉を囁く。
 もう、迷うものか。


『……――カルロス? 貴方がこれをいつ聞いてくれるのか私には分からないけれど、もう後悔なんてしたくないから……飛び発つ前に言っておくわ。
 お願い、ヨーロッパに来て。私と一緒に戦って。……違う、そうじゃなくて……戦わなくてもいいから、傍にいて? 貴方の胸に抱かれていたい、抱いて欲しいの。子供みたいだなんて言わないで。不安な夜は独りじゃいられない。誰かの腕の中で眠りたい。それって誰でもいい訳じゃなくて、きっと貴方じゃないと駄目なの。
 一週間位は、予定通りの場所に居るわ。その先は……どうなるか分からないから、その都度連絡する。……あぁ、もう行かないと。

 ――ねぇ、カルロス…………愛してるわ。だから私の元に飛んできて』



- Fin -





アトガキ

 ……(爆死)。 でも書いてる最中は、猛烈に楽しかった。
 もうどうにでもしてくれって感じですか? そーですね。そんな気分です。実際にコレを書き上げたのが2001年11月30日でして、それから12月いっぱいまで無修正・無校正のままメールでバラ撒いていました。その裏で12月中ずっとちまちまと校正・修正・加筆していまして、一般公開しても自分が耐えられそうな状態になったので思い切ってアプします。
 どこら辺が修正やら加筆やらしてあるのかという疑問は、以前コイツを請求してくださったごく少数の方だけが知っていてくださればそれでいいです。修正はともかく、加筆した量は、ひょっとすると結構多いかもしれませんね。さっき400字詰原稿用紙に換算してみたら、全部でおよそ5枚分程にもなっていました。あっはっは。やだなぁ、もう……俺ってば。
 しかしヤってるシーンを書きたいが為に、前後をこんだけ多量に書き殴れてしまう自分の暴走っぷりが流石と言えば流石(汗) でもそのエロシーンは、実は某小説のを少しパクってます……。指摘される前に暴露しておきます。そしてこんなトコで言うのもナンですが、ネタを提供(むしろ無理矢理奪い取った感もある/汗)してくださったヒロ様、有難う御座いました♪
 あ、今回のは船と言っても、ヨット系の、割と小さめの奴です。前回はフェリー(客船)系の、デカイ奴。
 そしてエロですね。色々な意味で限界ギリギリです(汗)。よもや自分がエロ系を書く(しかも公開)とは、前作『微睡みのなかで』を書き上げた時点では夢にも思ってはいませんでした。やってるシーンを自分で書くにはなんとも恥かしくてですね。具体的な身体の部位を表す単語(舌とか乳首とか)をズバリ書くのが物凄い抵抗あるのです。でも読むのは勿論大好きですよ(爆)それなりにイケナイ大人なんで。
 ラストギリギリまで自分的にはかなり痛い展開で、カルロスがジルの気持ちを尊重して身を退く(退いてるか?)トコなど、自分で書いておきながら萌えました。イタイ、痛いよカルロス……。でもそんなお前が大好きさ(爆) でもやっぱ私はカルロスに夢を見ているなぁ……。エロシーンの最中にもこっそりと彼の黒い過去を忍び込ませちまうトコなんて特にね(笑)。
 そしてジル。いつも以上に弱々しいですね。毎回言ってるかもしれんが、こんなんイメージ違いすぎるよ。コレではただの恋する乙女(汗) 最後のメッセージはもっと印象的にしたかったと言うのが本音です。そんでもって『愛してる』なんて使いたくなかったんですが、日本人じゃないし、欧米では当り前に言う言葉なんですよね。背中を押すには、はっきり言わないと駄目かなぁと思って、吹っ切りました。でもカルロスに言わせる程には、まだ吹っ切れてません。言わせるものか、なんとしてでも阻止してやる。つーか『俺もだよ』程度で勘弁してくれ(汗)
 結局タイトルの『はなむけの言葉』は一体どれだったのかという疑問が残るが……ま、まぁそれは適当に見繕っておいてください。どうしても知りたければこっそりお教え致します(^^;
 ……散々こんなの書いておきながら、今後ゲーム本編でカルロスが登場しなかったら泣くよな、きっと……。
 つーか、ちょっと待って! 読み返して今気付いたぞッ。なんかカルロスお前ジルにちゅーし過ぎだぞーッ(焦) その気持ちはわからんでも無いが、それってどうかと思う〜ッ(焦・汗) あーうーッ。うわーんっ、私の馬鹿〜っ。

 エロは多分もう書かないと思いますが、でも私の言うことだから信用出来ませんね(汗)
 それでは、今回はこの辺で。 ここまでお付き合いくださり、有難う御座いました!