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2009.02.15.
2003.02.19.
奈落の底のような地下施設から地表へと這い出してみると、東の空は白み、夜が明ける所だった。先刻まで嵐のように吹き荒れていた雪も嘘のように止み、そよとも風は吹いていない。
見渡す限り広がる、白銀の原野。
ほどなくして目を開けてはいられないほど、この世界は眩く輝くだろう。
まずまず明るくて息を抜ける場所に出て、改めて隣に経つパートナーの姿を見たとき、私は込み上げてくる笑いの発作をこらえられなくなった。
数え切れないほどの切り傷、擦り傷、打撲のあと。衣類に点々と散る奴らの体液。それから、埃や爆風で煤けた顔。
控えめに言っても酷い有様で、とても見られたものじゃない。
でもそれは私だって同じなはずで。
それを考えたら益々可笑しくなってきて、もうどうにも止まらなくなってしまった。
「なんだよジル。どうした」
本部との短い通信を終えたクリスが、“気でもふれたか”と言いたそうな目で私を見ている。とてもではないがまともに答えられそうもなくて、私は“なんでもないの”という意を込めて手を振った。
疲れ、傷ついた身体が悲鳴を上げている。でも、思いのほか気分はいい。
これでワン・ダウン。
あといくつのダウンを奪えば奴らは倒れてくれるのだろう? ……それは分からない。でも、とにもかくにも、これが効いていることには変わりないはずだ。
そうであればいいと願いながら――いくつもの夜と沢山の犠牲を乗り越えて、戦い続けてる。
これまでずっとそうだった。
いつだって私たちは、冒険の終わりに朝日をみる。
きっとこれからもそうなのだろう。
笑いすぎて目尻に浮かんだ涙を拭いながら、再び周囲を見渡した。
――あぁ。
世界はこんなにも美しい。
Welcome Home
2003.03.xx.
真夜中の静寂と安息を打ち砕くかのように、電話が鳴る。
このところ不眠気味で、うとうとし始めてようやく今夜は眠れるかと思い始めていただけに、鳴った電話が普段以上に腹立たしかった。
カルロス・オリヴェイラは溜め息混じりに立ち上がる。どうせいつも通りのロクでもない内容なのだろう。どこかの地区でウィルスに汚染された生物が発見されたから退治しに行け、とかなんとかかんとか。
一瞬、電話など取らずにいようかとも考える。そのうち諦めて鳴り止むだろう。だが“組織”からの招集だったとしたら? このまま一時間だろうが朝までだろうが、受話器を取り上げるまで――あるいは別の手段で連絡がつくまで――鳴り続けているに違いない。結局、自分には『電話を取る』以外の選択肢はないらしいと思い至る。
カルロスは苛立ちを呑み下し、六回目のベルが鳴る寸前に受話器を取り上げた。
「ハロー?」
『よう、起きてたか』
誰何(すいか)も名乗りもない応答。それほど明瞭ではない音質だったが、その短い言葉で見当が付いた。そもそもこの番号を知っている人間は限られている。そしてこの声は嫌になるくらい耳慣れた、よく知っている男のものだった。クリス・レッドフィールドに違いない。
こんな気分の時に、ましてやこんな時間に聞きたい声ではなかった。密やかな期待が打ち砕かれて彼の気持ちはさらに沈む。
「何時だと思ってる」
『こことそっちでどのくらい時差があるのか知らないんだ。こっちが朝だから……ま、そっちが朝じゃないのは確かか』
全く悪びれた様子もない明るい声で言われては、怒る気もそがれてしまう。これも人徳というものなのだろうか? カルロスはそっと息を吐く。
「それで、なんの用?」
『ああそうそう、用事な。お前宛に荷物を送るから。空港で受け取ってくれ』
……荷物? 空港で受け取れ?
訝しむカルロスの眉間に皺が寄る。そんな物は組織の事務所かアパートにでも送ってくれればいいだろうに……。頻繁に世界各地へ出かけていくクリスほどではないにしろ、カルロスだって十分に多忙だ。そんなことくらいクリスだって承知しているはず。
それとも、通常のルートでは送れないような特殊な物や情報なのだろうか? だとしても、組織内にはきちんとそれ用の要員がいるのだからそちらに仕事をさせるべきで、わざわざ畑違いのカルロスにやらせるというのはおかしな話だ。
しかし彼は喉元まで出てきた疑問を呑み込む。本当は訊いてしまいたかったが、なにぶん今使っているのは一般の電話回線だ。どこで誰が聞いているか分かったものではない。用心するにこしたことはないだろう。結局、その後僅かなやり取りで場所と日時を教えられたところで、急に慌ただしく通話は切られてしまった。
――ちくしょう。
カルロスはそっと毒づく。
今夜も眠れそうにない。
* * * * *
様々な理由から、新たに造成されたラクーン・シティに空港は作られていない。……いや、自家用のセスナ機が離着陸出来る程度のごく小さな物ならば存在するのだから、まったく“ない”というわけではないのだろうか。だがこの都市(組織)でもっぱら利用されているのはヘリコプターであるゆえ、それが顧みられる事はほとんどない。
三月上旬のこの日、ジル・バレンタインは母国アメリカの土を踏んだ。急がねばならなかった往路とは違い、時間の制約がなくなった復路は乗り継ぎに乗り継ぎを繰り返す、ひどく時間の掛かる細切れな空の旅だった。掛かった時間も、その為に立ち寄った国も空港も、軽く往路の倍はあったのではないだろうか。
彼女がこの国を離れていたのは一ヶ月程度でしかないが、我が身を包む空気や色、におい、その他なにもかもが懐かしくてたまらなかった。勝手知ったる自分の国、自分の領域に帰ってきたのだ。――帰ってきた、その意識と感覚が思っていた以上に彼女の心を浮き立たせる。
まずなにをしよう?
この旅に残された最後の行程――空港からラクーンまでは、車で一時間強は掛かる。だが彼女の心は既にラクーンにあった――をまるまる無視して、思いを馳せる。
組織の本部に出頭して報告をしなくてはならない。それは間違いない。でもそれは今日ではなくて……どんなに早くても明日で十分間に合う話だ。やりたいのは、仕事ではなくてもっと私的ななにか。たとえば、シャワーを浴びてゆっくりとバスタブにつかるなんて良いかもしれない。それからカロリーなど気にせず食べたいものを好きなだけ食べるとか……
ベルトコンベアのようなターンテーブルの前で数分待ち、自分の荷物を選び取る。意外なほどずっしりと重い荷物を引きずり、彼女は到着ロビーへ向かった。
利用客と送迎に来る人々とを隔てるゲートをくぐる。緩やかな人の流れに乗りながら何の気はなしに視線を巡らせたとき、思わず彼女は我が目を疑った。30ヤードほど離れた所に見知った人がいて、まっすぐ彼女を見ている。少し距離があるせいで表情はよく分からないが、意外にもどうやらジルと同じように驚いているようだ。
その人物は別の用件でここに来て、たまたまジルを見つけたのだろうか?
多分、そうなのだろう。そうでなければここにいる理由も彼女を見て驚く理由も説明出来ない。だがもし偶然でないとしても、ジルには理由などどうでも良かった。彼女は立ち止まるか駆け出すかしてしまいそうになるのを意志の力でねじ伏せ、それまでと同じ歩調を保ち歩き続ける。
彼女らしい毅然とした足取りで、まっすぐに。
一歩距離が縮まるごとに彼女の胸は高鳴り熱いものが込み上げてくる。無意識の内に口角が上がり、自然と笑みがこぼれ出た。
――時には離れてみるのも、いいものよ。それで分かることもあるんだから。
以前ある友人がそう言っていたのを思い出す。その時は友人がなにを言っているのか分からなかった。一緒にいた他の友人たちもジルと同じように理解していないようだった。でも今なら分かる。友人の言葉は正しかったのだ。
ジルは人の流れから外れて、ようやくその歩みを止める。
これを“再会”と呼ぶには、離れていた期間があまりにも短い。しかしこの短期間の内にそれぞれがそれぞれの死線を越えてきた。だから実際の時間よりもずっと長く離れていたような気がする。
視線を上向け――なにしろ相手は随分と背が高い――琥珀の視線を捉える。そうしてそこに自分の姿が映るのを確かめ、彼女は愛しい男の名を呼んだ。
「ただいま、カルロス」
嬉しそうに笑み、彼もまた愛しい女の名を呼ぶ。
「おかえり、ジル」
そうして再会を喜び、互いの背にそっと両腕を回した。
* * * * *
二人はカルロスが運転する車でラクーンへと戻る。
車中では離れていた間に起きた様々なことをあれこれと披露し合った。どれも他愛ないことばかりだったが、話は尽きなかった。とはいえ、ふと話が途切れる時もある。それほど居心地悪くなるような沈黙でもなかったから、急いで次の話題を探しはしなかった。
シートにもたれ、後方へ流れ去る景色を眺めていた彼女がぽつりと言った。
「こっちはもうそんなに雪はないのね」
「もう一週間くらい降ってないんだ。このまま春になれば良いんだけど……残念?」
いいえ、とジルは首を振る。
「雪しかない所にいたから、もう見飽きたわ」
うんざりとした表情で不満を漏らす。そうして彼女は意識せずに右肩の古傷に触れた。視界の端でその仕草をとらえたカルロスは僅かに眉を顰めた。彼女があの傷を負ったのはもう五年近く前だ。今はもう薄く痕が残るだけで、痛みも後遺症もなく完治したと医者もジルも言っていた。それでもまだ痛みがあった頃の癖が抜けないのか、それとも単純に疼くのだろうか。時折彼女はああして傷痕に触れる。
そして――これは最近分かったことだが――そうする時はきまってあのラクーン最後の数日間に起きた何かを思い出しているのだ。今回はなんなのだろう? 彼も分かち合えるなにかなら良いのだが。
「……あの人も、ロシアの人だったのよね」
「あの人?」
「ミハイル。あなたの隊長だった人」
彼女はその青い眼差しをカルロスに向ける。彼は脇見運転にならない程度にジルを見て頷いた。そういえば、彼女とミハイルのことを話すのは初めてかもしれない。
――ミハイル・ヴィクトール。
アンブレラ社があの都市に放った傭兵たちの中で、ジルが唯一会った指揮官だ。ある程度の規律はあったものの、所詮寄せ集めの部隊でしかないU.B.C.S.は、野犬の群れのようなものだった。その中にあって彼は優秀であったし、尊敬され慕われた数少ない指揮官の一人だった。国や規模、時代を問わずそういった人の指揮下に入れるというのは、まれなことだ。
「あんま詳しいことは知らないけど、ソ連時代に軍人やってたって聞いたよ」
そうだろう、というように彼女は一度ゆっくりとまばたきをする。
「私がミハイルと話をしたのは本当に数分なの。その間ずっと傷のことなんて一言も言わずに、大勢の部下を死なせてしまったって、悔いていたわ」
目を閉じれば、今でも鮮やかに思い出せる。
路面電車の長椅子に寝かされ、傷の痛みと悪夢にうなされていた姿を。傷ついた体を引きずり、憎悪を銃弾にのせてゾンビにぶつけていた姿を。――そして、路面電車の車両に飛び込んできたネメシスと対峙する勇姿を。
「彼は私たちを守ってくれたのよね。……ねぇ、私も彼の部下だったのかな」
ジル自身は、一時的に手を組んだだけで部下になったつもりはなかった。しかしミハイルは? もしかしたら、失った部下たちの代わりに新たな部下を得たと考えていたのではないだろうか。彼の“守るべき対象”は部下だった。それならば――
「――かもな」
カルロスは微笑んで同意した。
いかめしい表情の奥にあった優しい眼差しを思い出す。彼はいつも自分よりも他者を気に掛ける、あの部隊にあっては特異な男だった。彼に“理想の指揮官”を見ていた者を何人か知っている。実際カルロスもそうだった。今にして思えば、彼の部下でいられたというのは幸運だったに違いない。
「……ロシアに巣くってた悪い虫をひとつ潰して、それであの時守ってくれたお礼になるかしら」
彼女は自身の身体を抱いて、視線を落とした。
「彼は自分の信念に従って行動した。俺たちがあそこから脱出したので十分礼は出来てるし、満足してくれてるさ。――でも、今回の事にはきっと『良くやった』って、言うんじゃないかな」
その言葉に、ジルは弾かれたように視線を上げる。数度まばたきをしてまじまじとハンドルを握る男の横顔を見た。見た、と言うには、彼女の視線はあまりにも真摯だ。それに戸惑ったカルロスは、内心を隠すように笑って彼女の様子を窺う。
「うん?」
「……ううん、なんでもない」
彼女は表情を緩めて視線を前方へと戻す。
なぜだろう。ずっと胸につかえていた物が取れたような、肩の荷が下りたような気分だ。もちろん全てがなくなったわけではないのだが、それでも随分と心が軽くなった気がする。
そっと目を閉じて身体をシートに預けた。
定速で回転を続けるエンジンの音、シートを伝って感じる振動、そして愛しい男との親密な時間。全てがジルの緊張をほぐしくつろがせる。それからまもなく彼女は睡魔に身を委ね、意識を手放した。
往路は遠く、復路は近い。
実際には同じ道を違う方向から走るだけなのだから、掛かる時間も距離も同じはずだ。なのに走れども走れども辿り着かなかった往路と違い、空港からラクーンへの道程は驚くほど早く過ぎた。感覚という物がどれほどいい加減で当てにならないか、彼は今更ながら驚き、心の内で苦笑する。
窓の外を流れる風景は、随分見慣れた、親しみのあるものになりつつある。ラクーンまではあと僅かだ。
助手席に目をやれば、穏やかな寝息を立ててジルが眠っている。表情は安らかであどけない。なにか夢を見ているかどうかは分からないが、もし見ているのなら、優しいものであればいいと思う。
願わくば、このひとときがいましばらく続かんことを――
- Fin -