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2007.10.23.
2001.xx.xx.
薄い月明かりの下で見るそれは、可憐な花の様に見えた。
しかしそれは純然たる錯覚であり、実際にはひどく無骨でみすぼらしい建物である。
その建物に10個の影が忍び寄る。足音ひとつ、あるいは衣擦れの音さえも立てずに影たちはまたたく間にそれを包囲した。
これまでのところは極めて順調。建物の中にいる者にこちらの存在を気取られた様子はないから、完全に理想的な不意打ちが出来るだろう。そしてそのまま台本通りの終幕となれば言うことなし、なのだが……。それはあまりにも高望みに過ぎるだろうか。なにしろ相手はこちらの望み通りに動く機械ではなく、時に想定外の行動をとる予測不能の人間であり、こちらもまた同じ人間なのだから。
暗がりで息を潜めてうずくまる。
あと10秒。
緊張が頂点に達し、知らずに汗が滲んでくる。
静かにせねば、と思いはする。しかしそう思えば思うほど僅かな音が気に障る。今、この世で一番やかましい音を立てるのは自分の心臓だった。
あと5秒。
目を閉じ、深呼吸をする。
そして彼らは合図を待った。
心音に紛れ、危うく聞き逃してしまいそうなほどの微かな雑音にも似たささやき。片耳に着けたイヤホンからそれが聞こえてきたと同時に、闇と同化していた影たちが動き出す。その正体は黒とも暗すぎる灰色ともとれる、宵闇色の戦闘服を身につけ武装した男たちだ。彼らは計画通り、淀みのない動きをもって一斉に建物への侵入を開始した。
交戦、そして最初の銃撃音がしてから数分後。
建物内部のとある場所のドアに、二人の男が取り付く。フットボール選手の様な、猪首の大男がポーチから円筒形の物体を取り出すと、ノブに手を掛ける細身の男と無言のうちに会話を交わした。
「スタン!」
背中を守る同僚たちに向けて鋭く警告を発し、手にしていた円筒――閃光音響手榴弾(スタングレネード)――についていた安全ピンを抜く。と同時に開けられたドアの隙間から手榴弾を室内へと放り込む。室内の何かに当たり音を立てて跳ね返る“それ”に、内部にいる人間の注意が向いた。その瞬間小さな悪魔がけたたましく笑い出し、光と音の津波が狭い室内を襲い、満たした。
目を背けるいとまがあらばこそ、だったろう。
ほとばしる閃光が網膜を灼き、視力を奪う。同時に力さえも伴う強烈な音に聴力をも奪われ、中にいた者は数秒の間茫然自失の状態に陥ってしまった。
わずか数秒。しかし攻撃を仕掛けた側にとっては、それだけあれば十分だ。手榴弾が破砕した直後、残響が消えきらぬ内に彼らは室内へと踏み込む。そして労せず、瞬く間に敵を取り押さえた。
以後銃声や争いの音が聞こえてこないところをみると、それが最後の戦闘だったのだろう。脅威は拭い去られたと確信できるまで彼らはくまなく屋内を捜索し続けた。十分な時間を掛けたのちに、先程手榴弾を投げた男が無線のマイクに囁きかけた。
「制圧完了」
周囲は何事もなかったかのような平穏と静けさを取り戻している。
ミッション・コンプリート。
* * * * *
毎日毎日、彼の元には数多くの報告が届けられる。重要なものからそうでないものまで、その幅は実に広い。別段届く報告のすべてを彼一人で処理しなくても良いのだが、そうしてしまうのが彼の性分なのだろう。
今も、昨日までと同じように雑多な報告書に目を通していたところだ。そしてある瞬間彼はひとつの単語に目を奪われた。
思い出や感傷に浸る、というのは彼の流儀ではない。
しかし、あの都市の名を目に、あるいは耳にする度に彼の胸は疼く。
“ラクーン”
愚かで傲慢な人間が造り上げた欲望の都市。汚らしくもあり、また美しくもあったあの都市は、ある事故が原因となり壊滅、そして――創世記に出てくるソドムとゴモラの如く、天から降りし炎によって――消滅した。
あの都市が消えることになった原因は彼にある。全てではないにしろ、何パーセントかは確実に。あの都市で為してきたことで、彼が罪悪感を感じることはない。もし感じていたとしたら、とうの昔に死、あるいは発狂するか、多くの者がそうであったように同僚の“被検体”となっていたに違いない。
だから胸の疼きは、罪悪感ではないのだ。郷愁、とも違うのだろう。それに名をつけるとしたら、もっとも近いものは憎悪なのかもしれない。
しかしそれが向けられているのはあの都市ではなく、たった一人の男に対して、なのである。あの都市において彼の“計画”を台無しにしてくれた、かつての部下に。鬱積する憎悪のすべてが向けられているのだ。
深呼吸をひとつして、彼は滲み出してきた憎悪を胸の奥へと押し戻す。そうしていつもの仮面を被り直し、報告書の続きに意識を向けた。
それはラクーンシティの生き残りと噂される、あるエージェントとその同僚に関するものだった。他の生き残りたち――ほとんどがかつて彼の部下だった――は政府と一定の距離を保ち活動していると聞いているが、どうやらこのエージェントは完全に政府の管理下にいるらしい。
おおかた老獪な職員に丸め込まれたか、弱みを握られたかしたのであろうが……。
いずれにしても愚かなことだ、と彼は思う。しかし愚か者にはお似合いだ。ゴミ溜めに呑まれて潰されるがいい。
そして彼の興味は同僚の方に傾いていく。報告者も、こちらの男の方を高く評価している。陸軍上がりの日雇いエージェント。非常に高い身体能力を有し、命令を遂行するための計画を立てられ、不測の事態にも臨機応変に対処出来る能力を持った、柔軟で頭のいい兵士。にもかかわらず、なんらかの欠陥を抱えているがために正規職員となれない男。
色の濃いサングラスの奥に隠れた、爬虫類を思わせる瞳が僅かに細まり笑う。
――いいじゃないか?
いつの日か適切なエサをぶら下げてやれば、まずまず働いてくれるだろう。
だが、その前に。
彼は報告書を脇に押しやり、僅かに思案する。しかるのちにペンを取り上げて簡素な内容の手紙を書いた。古臭くはあるが、確実だ。
ひとつ、テストしてみよう。
どれほど使えるのか、見てやろうじゃないか。
箱庭の扉がひらかれ、エキゾチックな容姿の紅い蝶がひらりと飛び立った。
アルバート・ウェスカーがあの報告書を読んでから、二時間後のことだった。
* * * * *
激しい疲労と睡眠不足。そして僅かばかりの連帯感。
それが昨夜得た収穫の全てだった。
誰に感謝されるでもなく、労をねぎらわれるでもなく。それは、まぁ訓練なのだから仕方ないとしても、もし“本番”であったとしてもそれは変わらないのだろう。なぜなら彼は、彼らは闇に生きる存在だから。現実には存在しない者たちなのだから。
必要とされているのに、疎まれ、嫌われる。
諜報機関のエージェントとは、なんと因果な商売なことだろう。
疲れた身体を引きずり階上へと押し上げながら、ジャック・クラウザーは自嘲気味に笑った。みずから望んで入った道だ、己が身を嘆く理由などどこにもない。他に得意なこともないし、第一、これ以外の世界を知らないのだから、いまさら他の道を進みたいとも思わない。結局のところ、おのれに最も適した職業に就いているということなのだろう。
それでも、よくもこんな仕事を選んだものだと罵倒したくなるときもある。
思考が堂々巡りを始めていることに気付いた彼は、頭を振って疲れと自己憐憫にも似た思考を振り払う。おのれを憐れむなど似合わないこと甚だしいうえ、得られるものなどなにもないと彼は良く知っていた。
ようやく辿り着いた自宅アパートメントのドアを一瞥し、異常がないことを確かめる。数日振りに帰る我が家であるが、留守家にありがちな様相――つまり郵便物であふれかえるポストといったようなものだ――は呈していなかった。もっとも、職業柄家を空けることが多いゆえ、郵便物は借りた私書箱に全て届くようになっているし、同じ理由で新聞も配達してもらわずに必要な時に買いに行くのだから、当然と言えば当然だ。
ドアの鍵を選び、気安い個人的な空間に入る。
担いでいた荷物を放り出し、ベッドへと向かう。とにかく今は眠りたかった。荷をほどき汚れた衣類をどうにかするべきなのはわかっているが、数時間先に延ばしたところで困りはすまい。
しかし意に反してクラウザーの足はその歩みを止めた。眉間に皺を寄せ、決して広くはない室内を見回す。なにかがおかしかった。
軍隊生活時代に染み付いた習慣の名残なのか、男が一人で生活している割には、奇麗に片付き整理されている室内。今でこそ雑誌やマグカップ、空き缶といったものが散乱しているものの、それらは彼自身が計算ずくで配置した品々だ。万一誰か自分以外の者が触れたら、それが必ずわかるように。だがそれらは数日前に召集命令を受けて出かけた時そのままで、なにもおかしな所はない。
なにも……なにも……。では一体なにがおかしいと感じたのか。
再度慎重に室内をあらためながら、ゆっくりと移動する。そうして、ようやく気付いた。においだ。少しばかりよどんだ空気中に残る、かすかなにおい。誰の面影も連想できない、彼には甘すぎる香水の残り香。
何者かがこの場所に侵入したのは間違いないようだ。それもおのれの仕事を心得ているかなりの手練れに違いない。
においの元を辿り、ようやく彼はそれを見つける。
コーヒーテーブルの上に置かれた一通の白い封筒。こんなにも目立つものなのに、何故今になるまで見落としていられたのか不思議だった。室内の何にも手を触れられた跡がないことから、侵入者の目的はこれだったのだろうと見当をつける。
無造作に取り上げた封筒は、厚みがほとんどなく、中に入っているものは精々カードが一枚か二枚で、それ以上ということはあるまい。宛名も差出人の名もなく、封蝋が垂らしてあるきりだ。蝋に押してある印は意匠化された“W”の一文字。
こんなことをしそうな人間に心当たりはない。記憶の棚を探ってみるも、該当しそうな名はひとつも出てこなかった。
ためつすがめつして見ても、ほかにおかしな所は見つからない。クラウザーはソファーに座り、覚悟を決めて封を切った。
“それ”は仕事の依頼だった。あまりにも簡単な内容に、自分をテストするためのものなのだとわかったが、たいして深く考えもせずに彼は承諾し、最高の仕事をして見せた。そうやって信用を得ておけばいつか役に立つ日も来る。
そんなふうに考えていた。
もし“それ”がおのれを破滅へと導く最初のつまずきだと、わかっていたとしたら。彼はそれを避けて行っただろうか?
――恐らく。
彼は全て承知し、理解した上でやはり正面から向かって行ったことだろう。
そしてそれが運命だと、笑うのだろう。
- Fin -