Moonlight, Stardusts

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2007.06.01.

 ――こんな日が来るとは思いもしなかった。
 空にはまだ太陽の欠片が居残っているというのに、気の早い街灯が歩道を照らしている。背中を丸めて顎を引き、やや俯き加減でおれはその歩道を歩いていた。今年の冬は例年に比べたら気持ち悪い程暖かい。しかし、それでも冬は冬。落日と共に温んだ空気はあっという間にどこかへ消え去ってしまい、世界はこの時期独特の刺すような冷気に支配される。日中が良く晴れて暖かかっただけに、急激な気温の低下は身に堪えた。現時点でこうなのだから、数時間後にはどれほど冷え込むのだろうか。
 交差点に差し掛かり、通りの反対側へ渡ろうと立ち止まる。信号を見上げたときに背筋が伸びて、ふと笑ってしまった。
 背を丸めて歩く人間は、おれ一人ではない。周囲に居る皆が皆そうだ。だがおれと彼らとでは、そうする理由が全く違う。彼らは寒さゆえに、おれは――“死んだ男”として世間の目から逃れて生きてきたがゆえに。それはあの夏の日以来身に染みついてしまった姿勢だった。だが、もうそうせねばならない理由はどこにもない。
 おれはもう、偽りの生を生きなくてもいいのだ。
 歩行者用の信号が青に変わり、周囲にわだかまっていた人々が動き出す。その流れに乗っておれも動き出した。

 赤煉瓦で覆われた五階建てのアパートメントの前に立ち、おれは彼女が住む部屋の窓を見上げる。引かれたカーテンの隙間から暖かそうな光が漏れていた。
 初めてこの場所に立ったのは、一年前のこと。あのときも今と同じように明かりの灯る窓を見上げた。しかしあのときと比べたら、随分と立場も状況も――もしかするとおれと彼女の関係も――変わったものだ。
 どこからか食事を作るいい匂いが漂ってきていた。
 その匂いに誘われるように、おれはすっかり馴染みとなった階段を足取りも軽く駆け上がる。彼女の部屋へと近付くにつれて強くなる匂いに、思わず笑みがこぼれた。どうやら遅刻せずにすんだらしい。……少なくとも、取り返しがつかない程には、していないはずだ。
 目的のドアの前に立つと、一度深く息を吸ってからチャイムを鳴らす。それからいつの間にか取り付けられた小さなカメラに――室内で小さなモニターを覗き込んで居るだろう人に向かって――笑みを投げた。
 しばしの間をおいた後、ドアに駆け寄る足音が聞こえた。軽快で心が浮き立つような音だった。もどかしく過ぎる数秒を耐え、ようやく開いたドアの内側から小柄な女性が姿を現す。視線が合った瞬間を狙って、おれは用意しておいた言葉を放った。
「Who loves ya, Girl?」
 開口一番、そんな言葉を聞かされるとは夢にも思わなかったのだろう。“お嬢さん”呼ばわりするおれをいつものように咎めることも忘れたようで、一瞬で頬から耳の先までが真っ赤に染まり、言葉を探して唇が動く。でも結局見つけられなかったらしく、困ったように笑んでおれの名を呼んだ。
「ビリー」
 ――ビリー・コーエン。
 そう、それがおれの名前。生まれた時に両親からもらい、理由(ワケ)あって一度は捨てたものの、目の前に居る彼女が拾い上げて再びおれのものになった名前。……拾い上げた、なんて簡単に言ってもそれは想像を絶するほど困難な作業であったに違いなく、しかも彼女――レベッカ・チェンバース――はそれをおれの与り知らぬところで全てやってのけてしまった。華奢でか弱そうな外見とは裏腹に、時々本当に大胆な行動をとってくれる彼女におれは驚かされてばかりいる。

     * * * * *

 午後八時半。
 夕食とそれに伴う後片付けが済むと、彼女が用意しておいたいくつかの荷物を抱えてアパートメントの屋上へと上がる。重々しい扉には“関係者以外立入禁止”と書いてあるが、レベッカはそれを気にした風もなくセキュリティを解除し始めてしまう。淀みない動作からすると今回が初めてではないようで、つまり、何らかの関係者である、ということなのか。
「さ、行こ」
 おれはそんなに物問いたそうな表情をしていたのだろうか。ドアを開けて振り向いた彼女は小首を傾げて、おれを安心させるかのように微笑み言った。
「大丈夫よ、ちゃんと管理人さんに許可は貰ってるんだから」
「それを聞いて安心した」
 万事において抜かりなしとは恐れ入る。おれは軽く頷き笑みを返し、二人揃って夜空の下へと足を踏み出した。
 いかに暖冬だとはいえ、真冬の夜気はやはり身を切るほどに冷たく寒い。吐息は吹き散らされずにしばしその場で白くわだかまる。風がないのは幸いだった。
「よかった、良く晴れてる」
 空を仰ぎ見たレベッカが独り言のように呟く。つられておれも仰ぎ見る。澄んだ大気に雲は全く見あたらず、青黒いインクを溶かしたような色をした空間に散りばめられた星が輝き瞬いていた。本当におあつらえ向きの夜空だ。
 ぼんやりと空を眺めている間に彼女は中央近くへと移動し、おれを手招く。近寄るとすぐさま彼女から指示が出た。おれは持っていた三脚を開き、待つ。その間にレベッカは自身が運んできた黒くて細長いケースを開けて白い筒状の物体――天体望遠鏡――を取り出した。
 実物を見るのは初めてだ。まさか彼女が持っていたとは知らなかった。……まぁ、決して珍しいものではないし、家庭用のプラネタリウムを持っていたくらいだから、別段驚くほどのことではないのだろうが。
 彼女が指示した場所に三脚を置くと、彼女は早速そこに天体望遠鏡を取り付ける。それからペンタイプのライトと手帳を取り出すと――多分コートのポケットにでも入れてあったのだろう――それを参照しながら細かな調節を始めた。どうやら手伝えることは何もなさそうだし、あまりにも真剣な眼差しに声を掛けることも躊躇われる。だからおれはその集中を乱さぬようそっと移動し、放り出してあった荷物を取りに戻った。この寒空の下でも出来るだけ暖かく快適に過ごすために彼女が用意していた品々だ。
 作業をする彼女の横に、銀色をした厚手の断熱シートを敷いて毛布を置いて待つ。やがて彼女は「あった」と小さく歓声をあげた。さらに一分程かけて細かな調節を済ませると、満足そうな表情を浮かべて望遠鏡から離れた。
 言葉ではなく身振りだけで促されて、おれは望遠鏡を覗き込む。
 馴染みのない装置から見えたのは、馴染みのある天体だった。果てしない暗闇にくっきりと浮かび上がるその姿は、肉眼で見慣れたはずのそれとも写真で見たそれともまるで違って見える。
 この地球からもっとも近くに位置する天体――月。
 満月には三日ほど足りないようだ――あるいは過ぎているのかも知れない。おれにはどちらなのか判別出来なかった――が、そのおかげで欠けた側の縁の辺りで陰影が強く付き、月面の様子がよりよく見えた。肉眼で見れば黄みがかって見えるのに、拡大され細部までを赤裸々に暴かれた月は白と黒の、色彩の無い荒涼とした土地でしかない。
 それなのにあばただらけの月面は驚くほど表情豊かで、美しかった。
 不意に息苦しさを感じ、おれは体を起こす。どうやら知らぬ間に詰めていたらしい息を吐き出し、深く吸った。視線を感じそちらを見ると、断熱シートに座ったレベッカがおれを見上げていた。
「思っていたよりもずっと綺麗だ」
 素直な感想を告げ、少し考えてからおれは付け加える。
「それで、ネズミはどこに居るんだ?」
「恐い兵隊さんに睨まれたから、月の裏側に逃げちゃったんじゃない?」
 彼女はにっこりと笑んで自分の隣を軽く叩いた。おれは誘われるがまま彼女の隣に腰をおろし、二人で一枚の毛布にくるまる。するとレベッカはそばに放り出されたままだったバッグに手を伸ばした。中から取り出されたのはステンレス製の水筒と、広げた手程の大きさのラジオだった。アンテナを伸ばしスイッチを入れて局を選ぶと、それはバッグの上に置かれた。
 音量を絞ったラジオから流れてくるのは、1970年代のポップスだった。柔らかな声の男性がDJを務めている。思い出話もなければはしゃいだ笑い声もなく、穏やかにただ淡々と曲名とアーティストを紹介していた。それを聞きながら二人とも黙って夜空を見上げる。ややあって会話の口火を切ったのはレベッカの方だった。
「“人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな一歩だ”」
「……アームストロングか」
 その言葉ならば知っている。ニール・アームストロング――アポロ11号の船長で、地球以外の場所に降り立った最初の男――が発した名言だ。あれは確か1969年、おれが生まれる三年前の夏だった。
「そう。彼らは月の“静かの海”に降りたの。面白いよね。地球の海から生まれた生命体が他の天体(ほし)に行って、最初に降り立つべき場所に“海”を選ぶなんて」
 それは多分、多くの人間がどうしようもないほどのロマンチストだからだろう。現実的に考えるならば、どうせ着地するならどこかの山の上とか荒れた海よりも、穏やかな海の方がいいと考えたからではないかと思うのだが、口にせず胸の中にしまっておくことにする。言ったところで笑われるか場が白けるかのどちらかでしかないだろうから。
「海と言ったって、本当に水があるわけじゃないんだろう?」
 頷き、彼女は答える。
「色の濃い場所を海と見立ててるだけの話だから。それにまだ氷も発見されていないし」
 ……質問をしたのはおれだし、彼女は事実を語っているだけなのだから仕方のないことだと分かってはいる。しかしどうして彼女は時々興醒めするほど夢の欠片もないことを言うのだろうか。そしてその直後に同じ唇からこぼれ出る言葉は、夢を見過ぎていると言っても良いほどだった。
「こんな風に月を見てるとね、時々考えるの。あそこに立つのはどんな気分なんだろう、彼はどんな気持ちでそう言ったんだろうって」
 ちらりとおれを見、再び夜空に視線を戻すと微笑んで彼女は続けた。
「信じられる? 人類が月に降りたってからもう30年以上経つのに、あそこに立った人はまだたったの12人しかいないのよ。それも男の人ばっかり」
「なら、レベッカが13人目で最初の女性になればいいんじゃないか」
 きみならきっとなれるだろう。掛け値なしにそう思う。だが、もしそうなったら今度こそおれの手には届かない人になってしまうことだろう。
「そうね、それもいいよね」
 相づち程度の気のない返事。決してその気がないわけでも、全く無理な話というわけでもないと彼女は分かっている。なのにそれほど熱心にならないのは、単にもっと重要なことが、この地上で彼女でなければ成し遂げられぬことがあるだけのことなのだ。
 それが何なのか、なんてもちろん問うまでもない。彼女とおれを巡り合わせた忌まわしいもの。彼女がいまだにこの地――ラクーン・シティ――に留まり続ける理由。それに違いない。
「でもねぇ、私はビリーと一緒に行きたいな」
 相変わらず月を見上げたままの彼女がそう呟いた。それはラジオから流れ出る音に紛れてしまうほどで、危うく聞き逃すところだった。
 そうだな。いつの日か宇宙に行ける日が来たなら、その時隣に居るのはきみだといい。
 しかしおれはその考えを言わず、ただ彼女を抱き寄せるに留めた。


 地上の雑踏に紛れて細く聞こえるのは優しい歌声。
 "We're All Alone"
 月明かりと星の雨に打たれながら、おれたちは今二人きりで夜空を眺めている。



- Fin -





アトガキ

 七萬打記念 for 庵さま。
 戴いていたリクエストは『ビリー×レベッカで“Starting Over Again”のその後、本物の空の下での天体観測』でした。……ま、まぁ、ビリレベにはなったかな、と……。この二人にしてはだいぶ甘くなりましたが、ビリーさん社会復帰済みだし、いいよね? つーかそろそろ私ゼロを再プレイするべきですね! キャラクター改変率が凄まじ過ぎて原型留めなくなってきてるもの。
 にも関わらずビリーが相変わらずレベッカを「お嬢さん」と呼ぶのは、私にとって外せない萌えポインツだからです。挨拶みたいなもんですから。えぇ。
 と言うわけで、こんにちは。季節外しネタ常習犯の瑞樹ですよ〜。
 まずは二つばかり補足説明を。そんな説明する自分が凄く情けないとは思いますが、はい、すみません……。
 日本で「月ではウサギが餅をついている」といわれているように、欧米では「月はチーズで出来ている」という伝説があるそうです。なので、軽い雰囲気を入れようかと思いビリーさんに「ネズミはどこにいる」と言わせてみたのですが……。なんか入れなくても良かったかも。
 それからラジオから流れてるのは Boz Scaggs の We're All Alone です。もうちょっと上手く入れられたら良かったのに。完全に力不足ですね。
 天体観測ついでに、流れ星のネタも入れようと用意していたんですが、結局入れる場所がなくなっちゃってボツに。行き当たりばったりに書き進めるからイケナイんですが、直らないんだよな。このまま葬るのは惜しいので、また披露出来るような話を思いついたらその時にやりたいナーと思ってます。もちろん、「覚えていたら」ってのが大前提(笑)
 えーとえーと、以前書いた話("Semper Fidelis"です。そこから約一年後という設定ですが、実際書いてる私にしたらもう四年前……)と比べて、レベたんちには変更点があります。カメラ付きのインターホンをね、設置しました(笑) いや、ほら、あった方が安全かなって。チャイム鳴ってすぐにドア開けるのもなんだしな。
 言い訳しかしてない上、だいぶ支離滅裂になってきたので、最後にアームストロング船長の言葉を原文で二つ紹介して終わろうと思います。
 一つは、着陸の成功を伝える言葉。もう一つはもちろん、作中でレベが使った言葉です。

 "Houston, Tranquillity Base here. The Eagle has landed."
 "That's one small step for a man, one giant leap for mankind."
               ――1969.7.20. APOLLO11 Neil A. Armstrong

 この「鷲は舞い降りた」で別の時代や物を思い浮かべた人は、きっと冒険小説が好きな人だと思うよ(笑)
 それでは、また。別の話でお会い出来ますよう!