Starting Over Again

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2006.02.11.

 二日、いや一日でいいから休暇が欲しい。
 恐る恐るそう願い出ると、意外にもあっさりと許可が下りた。逆にたったの二日でいいのか、こんな時期だし、今までろくに休みも取らずにやってきてるんだからもっと取ればいいのにと何度も仲間に言われる始末。けれど彼らだって週に七日、一日二四時間のフルタイム勤務に就いているかのような、一体いつ休んでいるのか分からない働き方をしているのだ。だから私と同じかそれ以上に休暇を取るべきであり、あそこで働く(戦う、と言った方が相応しいかもしれない)誰よりもその権利を主張していいはずなのに。
 まぁそれはともかくとして、この前休暇らしい休暇を過ごしたのがいつだったのか、私自身思い出せなくなっているのは確かだ。普段の休日でさえ、ラクーンシティにつきまとう特殊性と自分の仕事――遅々として進まないウィルスの解析と汚染除去、そしてそれらの対策全般――のことが頭から離れないから、実際のところこの仕事に就いてからの私はもう随分長いこと本当の意味での休日を過ごしていない気がする。
 この仕事は肉体的にも精神的にも非常にハードで常に危険が伴うけど、やり甲斐があるし自分の専門分野だから興味は尽きない。それに共に働く仲間は本当に素晴らしい人たちで、一緒にいて楽しいし嬉しい。だけど、少しの間ならそこから離れるのも悪くないだろう。
 かくして彼らの好意に甘え余分にもう一日、つまり三日間の休暇を得た私は、ラクーンシティを離れこの都市(まち)にやって来た。目的はただ一つ。ある人に会うためだ。

 初めて歩く街、初めて入る店。
 そこでの買い物を終え分厚い強化ガラスの扉を押し開けて外に出ると、頭上には冴えた青空が広がっていた。燦々と陽光が降り注いではいるものの案外気温は低くて、多分氷点を少し上回るくらいしかないだろう。
 ラクーンシティの冬も寒いけれど、ここの冬も負けず劣らず寒さは厳しい。もっとも、ここはラクーンシティよりも北にあるのだからそれは当然だとも言える。しかしガイドブックによると雪は滅多に降らないらしい。ラクーンシティよりも寒いはずなのにそこよりも降らないなんて、これは少し意外だった。
 でも人が多く集まる場所に付き物の喧騒と、この時期に特有の店頭や街路を華やかに彩るクリスマス用のイルミネーションのおかげで、ラクーンとそれほど違う様には感じない。それにここはあの人が住む街だ。初めて訪れた場所なのに、たったそれだけの理由でこの街を愛せそうだと思えるなんて、私ってもしやかなりゲンキンなのだろうか。
 時々折り畳んだ地図――観光用のもの、ではなくてより詳細な道路地図――で道を確かめながら、目的地を目指し見知らぬ通りを足早に進む。ダウンタウンの住宅街を越えて更に進むと、徐々に治安が悪くなっていく。ここはスラム街……までは行かないにしても、もう少しでそうなってしまいそうな危うい領域にいる地区のようだ。私は住所を書き付けたメモと地図とを見比べると、とあるアパートの前で足を止めた。
 埃や排ガス、風雨に長年さらされた外壁は随分と薄汚れ、屋上から始まり各階をまわって下りてくる非常階段は、ペンキなどとうに剥げて錆が浮いている。もう元が何色だったのかわからないくらいだ。あれはパニックを起こした人間が駆け下りる衝撃に耐えられるのだろうか。多分大丈夫だとは思うけど、果たして真相はどうだろう。冗談でも試してみたいとは思わないのが正直なところだ。この建物が取り壊されるその日まで、あの階段が使われるような事態にならないと良いんだけど。
 ずっと手にしていた地図とメモを抱えた紙袋の中に放り込み、私はこの古びた建物に足を踏み入れる。
 ――木を隠すなら森の中、とはよく言ったものだと思う。
 己の姿を隠すならば、人混みほど都合の良い物はない。目立たずにひっそりと生活する必要があるなら、人との接触が物理的に減らせる田舎が良いと思う人もいるかもしれない。しかし、田舎に行けば行くほど余所者に対する目と姿勢は厳しく、土地の面積の割にはコミュニティが狭いからどうしても人間関係は緊密になり、秘密を持つのは難しくなる。対して都市部では田舎と全く反対の現象が起きてしまう。一日に接する人間の数が多すぎるのだろうか、たとえば自分に危害が及ぶような事でもない限り、見知らぬ人間に対する関心は極端に低下する。こういった入退居が頻繁にあるアパートなどでは、隣人の顔や名前はおろか性別すら知らないなんてことも、冗談ではなく本当にある話なのだ。
 階段を上っていると、このアパートの住人らしき人――二十代前半くらいの白人男性だった――とすれ違った。身長は私よりも四インチ高いくらいだろう。ゆるくカールしている髪は赤褐色、瞳は暗い茶色。細身だけれど骨太な印象を受ける。職業上の習性とでも言おうか、私は一瞥してそのように特徴を大雑把に掴んだ。だけど――
 すれ違いざまの会釈など望まないけど、視線くらい投げて寄越したっていいのに彼はそれさえもしない。ひょっとすると私という存在に気付いていないのではないかと思うほど、無関心で眠たそうな瞳をして通り過ぎていった。
 ほら、ね?
 田舎だったら、きっと敵意に変わる一歩手前くらいの警戒心、あるいは好奇に満ちた視線で私を見ていただろうに、あの無関心振りにはある種の恐ろしささえ感じる。
 そうこうしながら三階まで上がり、部屋の番号を確かめながら寒くて湿っぽい通路を真ん中辺りまで進む。そうして目的の部屋までやってくると、ほっと息を吐いた。ざっと見回したけど、ドアホンやチャイムの類はなさそうだ。
 一度深呼吸してからドアをノックする。
 息を殺して応答を待ったが、内部からは物音ひとつしてこない。
 もう一度。
 やはりなんの反応もない。どうやら留守のようだ。
 私はコートのポケットに片手を入れ、そこにある鍵束に触れる。それは意外にも暖かくて、かじかんだ指先にとってとてもありがたかった。このキーホルダーに付けた鍵たちはどれも普段使う、馴染み深い場所――あるいは物――のものばかりだ。だけど、一本だけ一度も使った事のない鍵がある。今まで一度も行ったことのない場所にある、私の知らない部屋のドアを開ける鍵。少なくとも――あの人が躊躇いがちに笑んで、住所を書き付けたメモ用紙と共にこれをくれた五ヶ月前から――昨日まではそうだった。今日は……ううん、今はもう違う。
 目の前にあるこのドア。ここが、そうなのだ。
 私はポケットから鍵束を掴みだし、初めて使うそれを選んで鍵穴に差し込んだ。ぐいっと捻ると錠が小気味よい音を立てて外れる。抜き取った鍵をポケットに落とすと、私ははやる気持ちを押さえ室内に踏み込んだ。

 寝室と、形ばかりのキッチンがついた部屋がひとつ。どちらの部屋もあまり広くはないけれど、独りで住むなら十分というところか。もうここで何ヶ月も生活しているはずだけど、家具や物は驚くほど少ない。どうやら必要最低限の物しかなさそうだ。元々そうなのか、それともかつて軍人であった頃に染みついた習慣の名残なのか、室内はきちんと片付けられていて。そのせいなのか、実際よりもずっと質素に見えた。
 初めて知る、あの人の一面。
 あの人――つまりこの部屋の主――と初めて会ったのは数年前の夏だった。新米警官だった私の、そしてその他多くの人々の人生を変える発端となったあの日、私は彼に出会い、数時間を共に過ごした。
 それから空白の年月を経て、彼が再び私の人生に現れたのが、十ヶ月前。以来私たちは度々会う様になっていた。それも人目を忍ぶような形で。なぜなら公式な記録の上では、彼はもう“死んでいる”から。そうなるよう私が自ら手続きを踏み、“殺した”から。
 そのせいだろうか、彼に会うたびにひとつの疑問が浮かんで私を悩ませる。彼が死人であるならば、私は一体誰と会っているのだろう。自らを“誰でもない男”と称すあの人は誰なのだろう? ……誰でもいい。私にとって彼は“ビリー・コーエン”その人だもの。昔も今も、そして、この先も。
 私はキッチンがある方の部屋に入ると、抱えていた紙袋をテーブルに置いた。中身は二人分のディナーが作れるだけの食料品と、高さが十インチ程の小さなクリスマスツリー、そのほかに必要と思われる細々とした雑貨類。
 私はコートを脱ぎ、ツリーと雑貨類をその場に残すと、食材を抱えて意気揚々とキッチンに立った。とはいえ、正直なところ料理はあまり得意なほうじゃない。まるきりの言い訳になってしまうけど、毎日仕事に追われて食事を作る余裕もなかったから。だからあまり手の込んだものは作れないけれど、でもちゃんと練習してきたもの、きっと大丈夫。

 それから数時間が経った後にふと窓を見ると、まるで鏡のようになったガラスに自分の姿が映っていた。いつの間にか夜のとばりが下りていたらしい。料理とその合間を見てやっていたツリーの飾り付けに夢中になっていたおかげで、全然気付かなかった。室内の保温と人の視線を遮るためにカーテンを引こうと窓辺に寄る。ガラス越しに見上げた空には日中と同じように雲一つなく、冴えた光を放つ星と月が浮かんでいた。今夜も随分と冷えそうだ。それから何気なく下に視線を落とすと、そこに人影があるのに気付いた。吐息で曇るガラスをこぶしで拭い、その正体を見極めようと目を凝らす――けれど、その人はあっという間にどこかへ消えてしまった。
 私に認識出来たのはおぼろげなシルエットだけ。それは肩幅が広くてがっしりした体格の、男性だった。断言は出来ないけど、この部屋の窓を見上げていたように思う。
 ……もしかして。
 私は慌ててカーテンを引いて窓辺を離れると、指で髪を梳いたり裾を引っ張って服の皺を伸ばしたりしてみる。それで何が変わるわけでもないと分かってるけれど、こんな時は誰だってやらずにはいられないはず。それから万が一の事を考え玄関からは死角となる場所に身を潜める。
 二分と経たぬ内にドアに駆け寄る足音がし、誰かが勢いよくドアにぶつかった。きっと施錠されてないと思っていたのだろう。それから舌打ちと毒づく声、開錠しようと奮闘するもどかしい音が続く。やがて錠が外れる小気味よい音がしてドアが開いた。
 凍てつく冷気と共に勢いよくその人が室内へ入ってくる。そして息を切らせてはいるけれども柔らかな男の声が、私を呼んだ。
「レベッカ?」
 それは警戒しているとはっきり分かる声音だった。でも同時に喜んでいるような感じもする。やはり、さっきの人影は彼だったのだ。私は壁から背を離して彼の名を呼び返し、姿が見える位置に移動する。そしてこの都市に来た一つ目の目的を果たそう。
「こんばんは、ビリー」
 私の姿を認めると、途端に彼の相好が崩れた。まるで――というかきっとそうなのだろうけど――私を歓迎するかのように両手を広げ、凍えた口元に笑みが浮かぶ。
「警官のクセに住人に断りもなく入るなんて。令状は持ってるんだろうな?」
「あら、令状はないけど住人の許可はずうっと前に貰ってるわよ。ほら!」
 私は彼から貰ったあの鍵をつまみ上げ、そうと分かるように顔の前で振って見せた。それから彼を奥へと招く。
「そのコートを脱いでこっちへ来て。いつまでもそんなトコにいたら凍えちゃうよ」

     * * * * *

「そう……か、今日はクリスマスなんだな」
 キッチンがある方の部屋に入るなり、彼は目を細めてそう呟いた。視線を追わずとも彼が何を見てそう言ったのかは容易に知れる。テーブルの上に鎮座する、クリスマスツリー。それに違いない。
 言葉に続いて、憧憬にも似た痛むような眼差しと倦んだ表情が彼の顔に浮かぶ。それを見て胸が締め付けられたように苦しくなった。――だって、こんな表情を浮かべる彼を私は知らない。もし、“死人”として、正体を隠して生きてきた年月が彼にこんな表情をさせるのだとしたら……。そこから解放してあげたいと、切実に思う。
 そして、そう。それこそが彼に会いに来た二つ目にして、最も重要な目的なのだ。
 死者を揺り起こすに相応しい日とは言えない。でも、誰かに贈り物をするには今日ほど相応しい日はないと思う。本当は、食事の後にしようと思ってた。けれど私も彼も熱心に教会に通ったり、しきたりを重んじたりするタイプじゃないから、いいよね?
「ねぇビリー、ちょっとだけあっち向いててくれる?」
 私が窓の方を指さしてそう頼むと、彼は理由を聞きたそうな表情をしたあとに「やれやれ」とでも言いたそうに肩を竦め、でも結局何も聞かずに言うとおりにしてくれた。私はテーブルのそばに放り出したままだったバッグを手元に寄せて開ける。そして彼に見られていないことを確かめながら、そこから決して小さくない“ある物”を引っ張りだした。
 それを一応背中に隠して立つと、彼に「もうこっち向いていいよ」と声を掛ける。
「一体何なんだよ、お嬢さん?」
 こちらに向き直った彼は腕を組みちょっとだけ眉をひそめて、そして口元に笑みを浮かべてもいた。それがまた憎らしいほど自然で、似合ってもいて、腹が立つ。でも、そんな風に構えていられるのも今だけよ。これを貴方が受け取ったあとでも、そのちょっと斜に構えた態度と雰囲気を保っていられるかどうか、見てやろうじゃないの。
 私は背中に隠していたそれを彼に差し出して言った。
「メリー・クリスマス」
 すると彼はちょっと小首を傾げて「俺に?」なんて聞き返してくる。もうっ、私の目の前には貴方しかいないのに、他に誰にあげるというの。「もちろん貴方によ」と返すと彼はちらと笑んで「“らしく”ないな」なんて言う。
 確かに私がプレゼントとして彼に渡そうとしているのは、クリスマスらしいラッピングはおろかリボンすら掛かっていない無愛想な大判のマニラ封筒で、一見すると全く“らしく”ないことはなはだしい。だからそう思うのも当然で、仕方のないことなのだろう。
 でも私は中身に自信がある。彼もそれ以上は何も言わずにそれを受け取り、ソファーに腰を下ろしたところで封筒の中身をつまんで二インチ程引き出した。現れたのは端をクリップで留めた数種の書類。それを見ると彼は訝しむように眉をひそめ、説明を求めるようにチラリと私に視線を投げてくる。しかし私はそれを渡した時と同じ表情のまま、黙って彼を見ていた。私が何も言わないと分かると、彼は細く息を吐き出しながらその書類を全て引き出し、目を通し始めた。

 最初に見て欲しくて一番上にしておいたその文書は、そこに書かれた内容の重さに反して随分と白々としたものだった。紙面中央付近にほんの数行。十秒もあれば読み終えてしまえるくらいの量しか書いてない。
 だけど重要なことは全てそこに記載されている。あとはどうでもいい――最初のものに比べたら、ということであって個別に見ればどうでもいいものなんてひとつもない――添付書類でしかない。
 左から右へ、上から下へ。
 下まで行って動きが止まり、視線が上に戻る。そしてもう一度、今度は先程の倍近い時間を掛けて、下へ。
 そこで一旦全ての動きが止まった。目が僅かに見開かれ紙面のある一点を凝視し、息を呑む微かな音がした。思考が止まっているのか、あるいは理解しようとめまぐるしく思考が回転しているのか、どちらなのか私には分からない。ただ、答えを求めすがるかのように彼が視線を投げてきたので、一度小さく頷いて見せた。何も言わず、ただ励ますように。手にした書類全てに目を通すよう促す。
 それを彼がどう受け止めたのかは、やはりわからない。ビリーは信じられない、というかの様に軽く頭を振り、書類の続きに目を通し始めた。最初はゆっくりと、徐々に本当に見ているのか疑わしい程の早さで紙をめくる。
 やがて全ての書類を見終えた彼は、ゆっくりと胸一杯に息を吸い込むと顔を上げた。そこには驚きと戸惑いがない交ぜになった表情があって、手の込んだ冗談なのではないかと疑ってもいるようだった。
 彼がそう思うのも無理ないことだと思う。だってその書類の内容とは彼、つまり私によってなされていた元海兵隊少尉ビリー・コーエンの死亡報告の撤回を認め戸籍を回復すること、そして当時彼が受けた刑罰の大幅な軽減――無罪放免、とまではいかなかったが事実上極めてそれに近しい。当時マスコミに事件と裁判に関する情報が全くと言っていいほど漏れていなかったのが幸いした――だ。平たく言って、恩赦。
 なぜそんな事が私に出来たのかといえば、つまりこういうことだ。
 ラクーンシティを地上から消し去った“アンブレラ事件”を知らぬ者などいない。
 その原因となったアンブレラという名の製薬会社は、業務停止命令とそれに伴う株価の大暴落により、呆気なく表舞台からその姿を消した。しかし、その命令を下させるために戦った人がいたこと、そこに至るまでの過程において多大な犠牲と労力が支払われたことを知る人は少ない。
 そして、己の命さえも顧みずに先陣を切って戦いに臨んだ少数の者に対して、政府から報償が与えられた。報償を受けた当人たちの他にそのことを知る人はさらに少なく、きっと片手で足りるほどしかいないはずだ。
 まぁ、誰が知っているのかはどうでも良い話であって、重要なのは私が報償を受け取るべきとされた者の一人だったということだ。金か、あるいは法に触れずに済む範囲であるならばどんなことでもいいという事だったから、私は迷わずにそれ――彼に対する恩赦――を要求しようと決めた。とはいえ、実際はビリーと再会出来るまでの数年間、そう伝えるのを先延ばしにし続けていたのだけれども。
 私の要求について、最初(ひょっとすると今も)政府側はあまりいい顔をしなかった。でも粘り強く説得と嘆願、時にはちょっとした脅し――私に出来ることと言えば精々、ウィルス対策に関することの一切から手を引き、二度と協力しないといったこと位だが――を繰り返し、半年程前、ようやく渋る彼らの首を縦に振らせたのだった。虚偽の報告をしたことで少しばかり怒られはしたものの、それは大した苦痛ではないし、あとは彼らが私の要求通り一切の手続きを済ませてくれるのを待つだけだった。
 受諾されてから半年が過ぎ、それらが私の手元に届いたのはほんの数日前のこと。そして今それは、ビリー・コーエンの手の中にある。
 彼が私を見上げてからおよそ一分、二人のあいだにある空気はピンと張りつめていた。動くことも、呼吸することも躊躇われるほど。私としては先に何かアクションを起こすつもりはなく、ビリーが気持ちを整理し、心の準備を整えるのをじっと待っていた。さらにもう一分が過ぎる。彼は何度かに分けて息を吸い、ようやく口を開いた。
「……レベッカ、冗談にしては――」
 タチが悪いと、言いたかったのだろう。私は手を振ってそれを遮り、それは本当で現実なのだと肯定する。
「大丈夫、全部本物だから」
 ビリーは軽く頭を振った。そして、食いしばった歯のあいだから肺に溜めた空気を吐き出しながら、囁くように呟いた。その表情は砂で築いた城よりも脆く見える。
「かなり苦労したんじゃないか? 俺にはこんなことをして貰うほどの価値など……」
 私は屈んで彼の肩をそっと抱いた。しばらくそうしていてから少し体を離して頬にキスをした。唇ではなく、頬に。瞳を覗き込み微笑んでから私は言う。
「あるよ。貴方にはそれだけの価値がある」
 ――だって、貴方が好きだから。
 もちろんそんなことは言わないし、言わなかったこの理由を理解して欲しいとも思わない。けれど、誰かに何かをしてあげたいと思う理由なんて、それで十分ではないだろうか。少なくとも私としては、十分過ぎるほどだ。たとえ幾千もの理由があったとしても、これ以上のものなどあるはずもない。
 私から視線を外してしばらくの間ビリーは小さく何度も頷いていた。多分ほとんど無意識の行動だったのだと思う。やがてその動きが止まると彼は再度視線を私に向けた。そしてぽつりと呟いた。
「……ありがとう」
 気のせいなんかでは絶対なくて、私はその時確かにそれを見た。この数年ずっと彼にまとわりついていた影が、表情から、瞳から、発された言葉と共にゆっくりと抜けて行くのを。“誰でもない男”が消え去るのを。私は見たのだ。


 1998年7月24日の早朝。降り注ぐ朝日の中で敬礼を交わした時に“ビリー・コーエン”は死に、過去も未来も持たない一人の男が生まれた。少なくとも、私たちの間ではそうだった。だからまたあの日と同じように微笑んで敬礼することで、途切れた過去を現在に結び直せたなら――
 彼は……いいや私たちは、未来に向かって進めるはずた。
 私は背筋を伸ばし彼の正面に立つ。右手を挙げて、伸ばした指先を眉尻に付けた。
 そして微笑みと共にとっておきの一言を貴方にあげよう。

「おかえりなさい、ビリー」



- Fin -





アトガキ

 伍萬打記念 for 辰巳さま。
 これって ビリー×レベッカ ……というよりは、むしろ レベッカ→ビリー なんじゃないかと思った。
 そんでもっていざ一人称で書いてみると、やっぱり三人称のが良かったかなぁなんて思う。でも三人称で書いてたとしたら、一人称でやれば……なんて逆のことを考えるんだよね、きっと。というかオナゴ一人称がマズイだけかも、ひょっとして私の場合。
 そんな感じで若干迷走している瑞樹です、こんにちは。でももうしばらくは迷走が続くかもしれません。
 えー戴いてたリクエストは、ビリー×レベッカで「0のストーリーの中」か「クリスマス」でした。迷った末に(血迷って)クリスマスを選択、その挙げ句に全てにおいて大・暴・走☆ 人に差し上げるものとしてはありえない程自分設定を炸裂させた代物と成り果てました。そんで相変わらず、というかなんというか前振り長過ぎだわー……。す、すみません(汗) でもいつかは書きたいと思って温めていたネタ(脱・死人扱い、社会復帰)なので個人的には大変満足です。
 うーむ、それにしてもどうやら私、この二人の話ではどこかで必ず一回はビリーに「お嬢さん」と言わせないと気が済まないらしいね(笑) だって私、大好きなんだ、あの電車内で繰り広げられる一連のシーンが!! お嬢さんと呼ぶビリーも、そう呼ばれてプリプリ怒るレベも! あまりにも愛らしくて眩暈がします。萌え。いや萌えとかそういうのを超越してる気もするけど、やっぱ萌え。
 ビリーとレベッカ、このカップリングに対するイメージは未だに ビタースウィート で変わりません。この二人の場合、人目を忍ぶちょっと背徳的なのが理想的。でもふつーにラブ甘なのも好きですよー♪ ただ、そういう話だとビリーがワイルドな軍人仕様の人にはなりそうもないですが(笑) いつかそういう(ワイルド系)ビリーも書いてみたいです。
 ではでは、また別の話でお会いいただけると嬉しいです。