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2004.08.28.
憔悴した顔の男がじっとこちらを見返してきていた。
陸軍大尉デイル・エヴァーズマンはその男の顔をしげしげと眺め、子細に観察する。その視線は非常に不躾なものだが、相手がどう思おうと構いはしない。どうせそれは鏡に映した自分の顔なのだから。
軍の規定通り短く刈り込んだダークブラウンの髪には白いものが混じっている。髪と同じ色の眉は濃く太く生え、眉尻が威嚇するようにつり上がって消えていた。眉間に深く刻まれた皺と堅く引き結んだ唇のおかげで、いつも不機嫌そうだと友人たちは口を揃えて言う。薄曇りの空を思わせるブルーグレイの瞳が持つ光は不愉快なほど冷たく、なるほど、たとえ本人にそのつもりが無くともこれは確かに不機嫌そうな印象を与えるようだ。すれ違う人が皆一瞬怯えたように身をすくませて道を空けてくれる理由が分かった気がする。つまり触らぬ神になんとやら、というヤツなのだろう。
頬から顎にかけてを撫でれば、ざらりとした感触が手のひらに残る。五日分の無精ひげ。それが必要以上にエヴァーズマンという男を凶暴で粗野な男であるかのように見せていた。
まぁ、当たらずとも遠からずか。頬に剃刀を当て、塗りつけた泡と共にひげを剃り落としながら彼は独り言ちた。
陸軍士官学校(ウエストポイント)を卒業して以来20年余り、彼は人生と情熱の全てを軍に捧げてきた。生粋の職業軍人であるがゆえに、社会といえばこの封建的な軍しか知らない。確かに一般的な基準から見ればいささか粗野ではある。しかし決して好戦的でも凶暴でもない。そのような人間は今彼が立つ様な舞台に上がれない。恐らく、近づくことさえ出来ないだろう。
与えられる任務の特殊さ―――言い換えるならば、汚さ―――ゆえに、ともすれば公式にはその存在さえ隠され否認される、極少数の選び抜かれた男たち。エヴァーズマンはそういった男たちの一人だが、その所属部隊名については明言を避けよう。ただ単に“極めて特殊な任務をこなす部隊”であると言うにとどめておく。
その特殊な部隊のチームのひとつを指揮する男は、蛇口からほとばしる水を両手で掬い上げ、肌に残る石鹸を洗い流した。仕上げにもう一度顔全体を洗い、火傷しそうな程熱いシャワーを浴びる。準備も含め約二週間を費やした実戦訓練と、装備を解く間も置かずに行ったデブリーフィング。その間ずっと気の休まる時間などなかった。ほんの半秒さえ。
汚れと共に張りつめていた緊張が肌を伝って流れ落ち、湯と共に排水溝に呑み込まれる。滴る水気を乱雑に拭き取ったのち、バスルームから出るときに一度だけ振り向いた。鏡の中の自分と目が合う。
―――おい、こんなにじっくりお前の顔を眺めたのは、一体いつ以来だ?
* * * * *
陽が落ち、夜が忍び寄る黄昏時。ランドルフ・ナイト軍曹がPX(基地内にある売店)の駐車場に車を停めた時、目の前を見慣れた車が横切って行った。ハンドルを握っていたのは、どことなく俳優のジョージ・クルーニーに似た面立ちの男だった。とは言え誰だって少しばかりは、どこかしら誰かに似ているものだ。
ナイト軍曹はその男のことをとても良く知っている。
陸軍大尉。我らがチームの指揮官。
デイル・エヴァーズマン大尉は優秀で、信頼出来る男だ。単に有能なだけの将校ならば全軍合わせて何千人かは居るだろう。だが、命を預けてもいいと思えるほどの者はそう多くあるまい。そんな相手に出会える確率といったら、限りなくゼロに近いはずだ。
彼は死を招きかねない命令をいたずらに下すことも、自分に出来ないことを部下に無理強いすることもない。常に先頭に立ち手本となるよう立ち振る舞う。階級をひけらかし傍若無人なまねをしたこともない。
つまり、ナイト軍曹にとってエヴァーズマン大尉とはそういう男だった。幾人もの将校に仕えてきた叩き上げの軍曹が、最も信頼を寄せ、最も高い評価を付けた男。彼にならば命を預けられる。
軍曹は敬礼こそしなかったものの、テールランプの赤い光が見えなくなるまで敬意をもって上官の車を見送った。
その一時間程前。
けたたましく鳴る電話の音に叩き起こされたエヴァーズマンは、重い体を引きずるようにして宿舎を出た。シャワーを浴びてうたた寝をした程度で取れるほど、疲労の度合いは軽くない。そのせいか、かの扉の前に立ってもまだ不機嫌だった。
チームの召集は必要ないと言われたから、抜き打ちで行われる演習や訓練でもなく、ましてや新たな出動命令が下りたのではないと分かる。部隊を統括するロイズ中佐はエヴァーズマンだけに用があるのだ。一体何だろう? 部下の誰かが何かをしでかしたのだろうか。
―――もし、扉の向こうで中佐と共に待ち構えているものが何であるか、この時点で分かっていたならば。彼は決してその扉を開けはしなかった。結果、営倉に放り込まれることになろうとも。決して近づかなかった。
裏切りと侮辱。
ロイズ中佐がエヴァーズマンの為に用意していたのは、そうとしか表現しようのないものだった。無論ロイズにそのつもりは全くなかったのであろうが。
その部屋を辞去する時、彼の世界はすっかり変わってしまっていた。より正確に言うならば、彼の世界は―――内も外も―――壊れて消えていた。修復を試みる事も、新たに違ったものを一から作りあげる気力も沸かない。それほどエヴァーズマンは打ちのめされていた。
しかしそれを表には出さず、また誰にもそれを察知されることなく、陸軍大尉はいつものように肩で風を切って司令部をあとにした。
* * * * *
宿舎へと戻ったエヴァーズマンはベッドの縁に腰を下ろした。
事の始まりであるあの電話のベルが鳴ってから、まだほんの二時間だ。まさか己の身にこのようなことが起こるとは思いもよらなかった。うなだれ、両手で顔を覆う。まだ中佐の言葉が信じられない。
一体誰が信じる? 死神さえも避けて行くと言われたこのエヴァーズマン大尉に、病魔が取り憑いていようとは。いいや病気そのものはしかるべき治療を受ければ容易に完治する類のものだから、それは大したことではない。彼を打ちのめしているのは続けてロイズが言った言葉であり、それは彼にとって死刑宣告にも等しいものだった。
エヴァーズマンは自分のことを現場に居るべき人間だと思っていた。彼は行動する人間であり、現場仕事を、戦闘行為とそれにまつわる全てのことを愛していた。ロイズ中佐もそのことは良く知っているはずなのに。
―――なのに中佐はこの俺に現場を離れて事務屋をやれと言ってきやがった!
40歳を過ぎてなお、特殊作戦を行う実戦部隊の指揮官でいるのは容易なことではない。ゆえに体調管理には人一倍気を使い、日々の鍛錬も怠らなかった。お陰で同年代の人々と比べればかなり頑強だ。それでも、悲しいかな。いかなる鍛錬や強靱な意志を持ってしても、肉体が緩やかに衰えていくのは防げなかったし、髪に白いものが混じり出すのを止めることは出来ない。
確かに彼は「衰え」を恐れていたが、それは些細なこと。彼に限ったことではなく、男女共にこの年代の人間ならば誰だってそうだろう。老いた自分の姿など想像するだけでも苦痛のはずだ。
エヴァーズマンが真に恐れているのは、兵士でいられなくなることだ。いささか寂しいことではあるが、彼には大抵の男が持つような大切なもの、つまり守るべき家庭がない。それに最も近いものをあげるとすれば、それはこの軍隊であり、彼の指揮するチームだった。この世で最も信頼している、11人の優秀な部下たち。それが彼にとって最も大切であり、守りたいものだった。
自分から軍を―――あのチームを―――取り上げたら、一体何が残るだろう?
そう考え、エヴァーズマンの背筋がぞくりと震えた。何も。なにも残らない。
毎日毎日死んだ方がマシだと思えるような厳しい訓練を重ね、血反吐を吐く思いまでして己を、戦友(とも)を、部下を鍛えて来たのは一体何の為だったのか。
少なくとも、事務屋になるためではない。
決してその職を軽んじているわけではなく、重要且つ不可欠なものであるとは分かっている。中佐の申し出はまだ決定ではないし、そして実際には昇進であることも理解している。しかしエヴァーズマンは昇進には全く興味がない。ゆえにこれを自分に対する裏切りと受け止めた。
そんなものは到底受け入れられない。そんな事になるくらいならばいっそ……。
思考が止まる。そして顔を上げるとニヤリと笑った。
そうとも、先に俺を裏切ったのは奴らなんだから。俺が同じ事をしたからといっても、文句は言わせん。
エヴァーズマンは立ち上がるとおもむろにクローゼットに両手を突っ込み、クリーニングから引き取ってきた時そのままの礼装を取り出した。それは確かに自分の物だが、なんだか他人の服のようによそよそしい。この間これに袖を通したのは一体いつだったろうか。ハンガーから外しながら考える。
混然とした記憶をいくら漁っても分からない。
エヴァーズマンは肩をすくめるとそれを床に放り出した。
もう一度クローゼットに潜り、今度は着古したオリーブドラブの戦闘服を一揃い抱え出す。礼装よりもこちらを着ている時間の方が遙かに長いし、なによりも愛着がある。こちらの方が相応しいだろう。
―――俺の死装束に相応しいのはこれしかない。
手早くそれに着替えると、つい先刻までの打ちひしがれて途方に暮れた男はもうどこにも居なかった。そこには非の打ち所のない、兵士の中の兵士が居るだけだ。コンバットブーツは履き古されて傷だらけだが、訓練で付いた汚れはすっかり落としてある。仕上げに左肩から革製のホルスターを吊した。
さぁ、用意は整った。
バスルームの中にチラリと視線を走らせる。鏡の中から見慣れた顔が問いかけて来た。
『行くのか』
エヴァーズマンは僅かに顎を引いて頷いた。
「向こうで会おう」
* * * * *
部屋の中央に置いたイスに深く座る。
ホルスターから抜いたリボルバーを膝の上に置いた。塗ったばかりのガンオイルの臭いが、まるで精神安定剤のように作用する。
これまで幾度となく彼の命を救ってきたリボルバー。
今度も彼を救うだろう。
鈍く光を反射するバレルを撫で、束の間部下たちの事を考えた。
多分、彼らは悲しむだろう。身勝手なことをした俺に対し怒り、その身を震わせる者もいるかもしれない。なぜなら俺たちはチームであり、家族であるから。
しかしその部下たちでさえ、彼がいなくなったとしても誰か別の指揮官を得て、今日までと変わらずに任務を遂行し続けるだろう。軍とはそういうものだ。そうでなければ機能していけない。
心配は要らない。彼らは優秀だ。これくらいの障害は乗り越えてくれる。
「現場を離れる時期は、俺が決める」
エヴァーズマンはリボルバーを取り上げ、銃口を顎の下に押し当てた。
引き金をギリギリまで絞る。場違いな笑みが口元に浮かんだ。
「昇進なんぞクソ食らえ」
俺が現場を離れるのは、死ぬときだ。
- Fin -