PIANO MAN
2008.02.29.
「良ければ弾いてみないか、若いの」
カウンター越しに掛けられた声に、緩慢な動作で彼は振り向く。グラスを磨いていたバーテンダーは青年の視線を捉えて促すような笑みを向けた。
「今日は来ないらしくてね」
「……昨日だって弾く奴は来なかったじゃないか」
そうだったかな、とバーテンダーはうそぶいた。本当はもう何年もそれを弾く者はいない。最後にそこに座っていたのは初老の男だったが、ある日ふつりと来なくなってしまった。借金取りに追われて逃げたのだとか、他の店で弾いていたとか、あるいは川で浮いていたらしいとか様々な噂が囁かれたが、いまだに真相は闇の中だ。
最近この街に流れてきた青年は、無論そんなことは知らない。彼はピアノの上蓋に付いた丸いグラスの跡を指先で撫でた。
「無理にとは言わないが、弾けるなら一曲頼めないか」
バーテンダーはカウンターの上にウィスキーの入ったグラスを置いた。青年が今手にしているのと同じもの。初めて店に来て以来頼み続けているもの。
――そいつがあんたのおごりなら。
そう言って青年は空のグラスを返し、新しいグラスを受け取る。古びたピアノの前に座ると彼はバーテンダーに尋ねた。
「リクエストは?」
- Fin -